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一人称科学の提唱

E.ジェンドリン         ドン ジョンソン

(翻訳:村里忠之)

English

個人(あなたや私)の体験が一貫して排除されているのではない科学、しかも公的に承認された科学を我々は築く必要が有る。現在ある二つの科学の他に第三の科学を我々は必要としている。通常科学と呼ばれる「科学」は原子論的要素モデルを採用する。しかし今日全体論的(holistic)モデルを採る「生態学」も有る。この二つのモデルの存在はそれぞれの中の盲点を我々に見えなくさせている。第二のモデルは、原子論的科学の中では考慮されないであろう種々の問いを課し、種々の変数を定義する。

 モデルによって、方法、仮定、研究する際のやり方は異なる。そのモデルに沿ったやり方で研究される物が何であろうと、それはある特徴を帯びるように思われるだろう。なぜならそこで定義され見い出されうる事は何であれ、そのモデルに沿って考えられるに違いないから。

 現在の自然科学の大方を支配する要素モデルは、数学モデルとして最も容易に理解される。それは機械のモデルでもある。部分は他の部分と切り離されて存在する。それぞれが理解可能な要素である。数を加えると、例えば3+4は、その要素を明晰に守りつつ、7を得る。数71はこれの10倍に1を加えたものである。各要素は独立し、我々がそれらを結合した場合にのみ他と結合する。要素モデルの中では、我々が研究する対象は先ず他と分離して理解できる安定した要素、部分、原子、粒子に分割される。それから我々はその分離した要素を使って、我々が研究する対象を再構成する。我々がそれを自ら作ることが出来る場合にそれを「理解した」と言うのである。それゆえ、もちろんこのモデルを使って研究される物は分離可能な部分から構成される、作られる物のように思われる。このモデルは他のモデルより多くの進歩と利益を我々に与えてきた。しかし、どのモデルとも同様、それはその限界を持っている。

要素モデルにおいては、生き物と無生物との間には基本的な違いは無い。なぜなら全てが同じ無生物の部分から出来ていると仮定されているからである。部分はあたかもそれらが単独で存在するかのように個別に理解される。再結合はひとつの構成である。複雑なものはすべて一種の機械のように分離可能な部分から成ると見做される。この種の科学が研究する限り、動物も人間もまさに機械である。あなたや私が自らをそしてお互いをどう体験するかは、この科学が提示する現実からは消えてしまう。

要素モデルの科学者が家庭でわが子の瞳を覗き込む。そして子どもも見返す。しかし科学者は思う:「お前が事実上機械に過ぎない、ということは悲しいことではない!」と。この科学者の信念はもし次のことが認められたなら、有り得ないのではないか:つまり、どの科学もある接近法を使用していること、そして近代自然科学は研究対象を、それが何であれ、あたかも機械を作るような仕方で分離的に存在する諸要素から作り上げたかのように表現するのだ、ということが。自然科学は実際に生物を作り出すことは出来ない。しかし、要素モデルはいつかは我々がそうするだろうと人が仮定するように導くのである。その間、ものすごい変化と人工的なデザインが生物に導入されるだろう。

他方生態学においては、万事が生きた全体の内で考えられる。全体モデルは要素モデルの対極である。他から切り離された部分が独立で考えられることは無い。それを理解するには人は全体の中のその役割を見なければいけない。過去数十年にわたって、多くの事が生態学の中で観察されてきた。これは要素モデルの中では生じないことであった。同時に、新しい諸変数が通常の操作的研究のための操作的定義に与えられた。

生態学は全く逆のモデルを使う。つまり、万事が全体の一部なのである。それゆえ、「藻類に何もしてはならない。それは他の事全てに影響を与えるかもしれない。一つの変化は生態系全体を変える可能性が有る。」この全体モデルは確かに価値有るものであるが、やはり固有の限界を持つ。我々は宇宙の全体系の一部である。そして我々自身をこのより大きな全体の中において研究することは実りあることである。しかしこのモデルの中では、我々は広大な体系の中に吸収されてしまう。再び我々は姿を隠す。

上記の二つの科学が成功している、そして両者の貢献内容は異なるという事実が示しているのは、異なるモデル使用は有益だということである。生態学からしか生じなかったであろう多くの予測が今や正しかったことが証明されている。生態学が我々の知に不可欠であることは一般に認められている。次のように考える理由は十分あるのである。つまり、人間の自己言及的過程に一層適切な科学は生態学の諸成果が魚や他の種の保存にとって重要であったのと同じくらい、我々にとっても重要であるかもしれない変数や発見に繋がるのである、と。

人間や高等動物の諸過程は自己言及的側面を持つ。自己言及性とはそれ無しで理解されうる諸過程に単に「意識」が加わっただけではない。それは単なる物理的身体の上に漂う観察する意識といったものではない。むしろ有機体の諸過程に多くの特徴を与える特有の諸側面である。その特徴は現象に関する第三人称的概念によって構成される二つの科学においては現れないような諸特徴である。両科学は一人称を欠いている。しかし、何はともあれ、我々はここに存在しているのである。

三番目の科学は存在する。それは様々なプロセスのモデルである。それは内容からプロセスへの発想の切り替えを含む。分離した対象を分析するのではなく、我々が経験可能な種々のプロセスを識別定義する。この接近法は、他のモデルでは決して立ち現れない人間にとって重要な数多くの変数を既に導出して来た。既に立証された数多くの知見があるが、それらは未だ公的に認められた科学として統合、体系化されてはいない。独自のモデルを持つ真の一人称科学の形成は大いに実現可能に思われる。

諸過程の研究は安定した要素にも単一の全体にも依存しない。有機体の過程は常に新たに創造される全体からなっている。それは謂わば全体モデルを動輪としている。自己言及的過程は以前の過程から予測したり還元したり構成したり出来ない一連の全体をなしている。この過程は独自の次の過程を作る。

過程モデルでは要素に関して、あるいは全体に関して正確さを期すことはできない。このモデルは別の仕方で正確なのである:つまり、様々な過程の間には正確な区別が有り、所与の過程が生じつつあるのか無いのかを同定する正確な方法が有り、それがその条件下に生じる正確な条件が有るのであり、それらの正確な結果が存在するのである。

 

何を科学と見做すか?

或る命題が科学的であるか無いかを決めるのはその基本モデルではない。人がカリスマ的個人あるいは追試不能な報告を信頼する必要が無ければ、それは科学である。或る研究グループの発見が他のグループによっても発見できるならば、それは科学である。

要素モデルと生態学は異なるけれど、それらは結局共に客観的に定義された諸変数を持つ同種の操作的研究に成る。究極的な操作的研究は両者にとって同一である。しかし生態学は要素モデルの中では生じないであろう仮説と変数に至るのである。

一人称科学は同様に現行の両科学においては概念化されえない、発見されえないであろう変数と仮説に到達可能である。いったん認知可能な仕方で定義されれば、一人称の変数は操作可能版(三人称版)に発展可能である。しかしこれらの客観的変数は先ず体験過程が研究されて初めて導出可能になる。その後にこれらの変数の三人称版が工夫され、その他の客観的測定値を予測できるようになるだろう。

我々は幾つかの専門分野において既にそのような研究を行っている。またそのような定義された変数に至ることが出来るような類の知的領域の島をあちこちに持っている。

手続きと結果は理論とは別個に真実を持つ。一見「主観的な」変数に反対する人も有ろうが、もしそれが追試可能な信頼性をもって測定可能であるならば、かつての反対者もその測定には関心を持つだろう。

優れた相関的方法論はこれまでも長い間存在した。これまでしばしば欠けていたのは人間に関して重要な諸変数の正確に認識可能な定義である。それらがいったん信頼性を持って観察可能になれば、それらをその他の測定と相互に関係付けることが可能になるだろう。

だからと言って三人称的変数そのものが卓越しているということにはならない。三人称的実証と一人称的測定はともに両方向に必要なのである。人間科学においては、研究者は自分を自分が測定する際に「客観的」に行う必要が有る。なぜなら、これがその測定が測定するものを研究者が発見できる唯一の方法だから。ある測定が彼等の内に開くものの、彼ら自身の一人称的経験を基礎にしてのみ、彼等は彼らの理論的予測が実証される可能性があるかどうかを決定することが出来る。

発達した一人称科学の目的は要素モデル科学との相関を創り出す事ではない。そうした相関は生じるだろうが、稀だろう。現在多くの科学者は、経験される事は全て要素モデルの中でのみ定義される事に「還元され」うる、あるいはそれと等価であると考えている。我々はここで、それは全くの間違いであることが明らかになるだろうと考える。異なるモデル間の相関はあまり無いし、それらが等価であることは決して無い。むしろあるモデルの変数にとって他のモデルの相関する変数はなんらかの指標になることは有っても、並行するものや等価であることはない。例えばある種の不安が発汗と相関するにせよ、それは不安が「実際に」発汗「である」ことを意味しないし、不安を他のレベル、例えば関連する化学的あるいは神経学的諸パターンの全指標の集合「である」と仮定するのも正しくない。

要素モデルの中でさえ、人間をより低いレベルの変数にのみ還元する正当な理由はない。有機化学は実際無機的変数に還元されない。フォドア()の指摘によれば、科学は益々新しい変数を持った新しい特殊領域(そこでは誰も還元を実行しようとしない)を発展させつつある。神経学は、今日人間がそれに還元できると言われている有機化学に追いついて来た。更に高度のレベルの諸科学がすぐに展開する可能性がないとは言えないのである。

人間の諸過程は物理的、機械的、神経学的説明レベルだけでは理解できない。個別の人間の活きた過程は全ての器官に漲っているのである。

 

「差異無し」の発見

現在新しい技術と新薬は意図しない結果の検査を受ける。その他の点で差異が見出されなければ、差異無しであると宣言される。しかし勿論、検査できるのは人が考えられる差異に対してのみである。差異が発見されなかったからといって「差異がない」と結論することはできない。「差異無し、を証明」しようとすれば、一般に受け入れられている研究原理「ゼロ仮説は証明できない」に抵触することになるこれが不可能なのは、人が不適切な道具を用いれば周知の差異がある場合でさえ差異無し、を見出すことは容易だからである。例えば、温度計を使って雨と晴れの間に差異無し、を示すことが出来る技術操作の結果を発見し評価するための正確な変数を、一人称科学は広い分野にわたって提供することが出来るだろう。現在非公式に多くの場所に散在する数多くの変数から、この新しい科学はやがて正確に定義された全領域を発展させ、それらの間の関係を発見することが出来るだろう。

独自の発見に加えて、この新しい科学は新しい技術の評価も援助することが出来るだろう。現在問題にされえない種々の差異を、その変数は認知させてくれるだろう。多くの経験的変数が集められ、その中には操作的に特定化されるものも出てくれば、多くの差異が認知されるであろう。

技術の応用の現在の試験は不幸なことに要素モデルの内でさえ、未だ真面目な科学であるとは言えない。変数と発見の体系的な基盤が無いのである。技術革新の人間に対する影響に関する真の科学は無いとおよそ言って良いだろう。真の科学は先行研究の上に夫々新しい科学を築き、多くの研究に共通する諸変数を発達させ、例外に注意を払う研究者集団を持ち、新しい発見が理論に矛盾するときはそれを修正し理論を精緻化する。これに比べて、我々が現在所有しているのは、例えば電子レンジに関する一つの研究と、送電線に関する二つの研究と、自然の大豆とバイオ技術で造られた大豆を比較する一つの研究といった具合である。種類を異にする一つ以上の研究がある場合は、その変数は異なり、他の測定に関して正当ではありえない。これらの研究間では繰り返して検証出来ない。このように現在の科学の領域は重要な一房をなす体系的な一連の研究群とはとても言えないものである。一人称科学はこの欠落を修正することが出来るだろう。

多数の人間的経験に基づく諸変数を持つ一人称科学は現在定義できない差異を発見することが出来るだろう。以下の例を考えてみよう。

 

差異の例

新生児は恒常的に様々な理由で多くの薬物を投与される。現在判断されている限りでは、これらはその目的を達していて、その他の不都合な結果は生じないとされている。幼児に関する最近の研究において、ボウキデス()は以下の事を見出した。新生児のわずかな困難を見つけ、その子に身体のバランスと満足をもたらす限りでは、子どもの保育は有能な保育士や親のほうがはるかに上手に出来る。保育士や親が自分自身の体にある種の注意を向けることが出来るようになると、認知可能になる特定の変数群を彼は定義した。この過程は今では教えることが出来るし、広く認知されうる過程である。そこには個人的経験が含まれるが、それが可能にする行動は測定可能である。この訓練法が確立すれば、新生児の扱い方は多分改善されるだろう。妊娠期間や誕生の際の扱いがこれらの変数に差異をもたらすかどうかも、測定可能になるだろう。

幼児への差異は誕生直後のみならず、数年後も測定される必要がある。一人称科学が発達した暁には、我々は人生のもっと後の発達段階の差異も検査することができるようになるだろう。また、多くの変数、例えば様々な夢、様々な情緒的滞り、様々な身体運動パターン、多様な集中能力、等々も測定可能になるだろう。

薬品会社や投資家は処置の望ましくない効果について予め知りたがるだろう。製品開発の設計にそれを生かすほうが、しばしば安上がりだろう。我々は実際既にこの種の知見を持っている。しかしそれは散在し、組織化されていず、利用可能なものである。

例えば幼児にリタリンを投与する件に関する論争を見てみよう。注意欠陥の症状は減る。さもなければ差異が無いと言われる。しかし綿密な人間観察から、一人称的観察を集めてみよう。

ある観察者は子ども達がリタリンを使わずにいた休暇の間に自分がほっとしたと語るとき殆ど泣きそうだった。しかし彼女が体験した差異とは何だったのだろう。我々はそれを特定し、研究できないだろうか?

ボディワークの専門家であるドン=ハンロン=ジョンソンはNIHMと関係付けてあるプロジェクトを作ったが、その際アレキサンダーテクニックとエフォットシェイプを含む幾つかの周知のメソッドの訓練に使われる用語を定義した。これらの、そしてその他の体に関する変数が特定されたならば、それらは技術的介入や処置の結果生じる差異を試験するためにも使用されうるだろう。

 

社会政策における提案されたこの科学の役割

社会政策における決定は科学の応用に投資された巨額の費用に影響される、とはよく言われるところである。科学と財政とは一つの体系をなしている。客観的な決定は不可能に思われる。にもかかわらず社会政策は科学をベースに議論され、概ね決定される。

 政治家達は科学的専門的問題を決定することを自ら取り上げはしない。各専門分野のエキスパートの社会的に認知された集団に注目する。この点で、生態学の存在は今や要素モデルの科学者のみが支配するのではないことを意味している。我々が実現したいのは、人間に影響を与える諸決定において相談に与る能力を持った、組織だった人間の科学の創造である。

 例えば、あなたが、ある遺伝子の除去が「安全」と宣言されうるかどうかに関する専門的政策決定委員会の一員であると想像してみよう。パテントを持つ会社は莫大な投資をしていて、あなたが属するその委員会に圧力を掛けるだろう。委員長はどの決定が彼女を満足させるか示唆するだろう。あなた自身の教養や文化はその考えに満足しないかもしれない。これらの全てがあなたに影響を与えるだろう。しかし核心は「あなたは利用可能な最善の情報によって立つのでなければならない」ということである。「利用可能な最善の情報」とは科学である。意図された結果以外に「差異無し?」があると科学が判断する事態を考えて御覧なさい。責任ある立場の人間として、あなたやあなたの委員会がよって立つべき科学は他に無いのだろうか?

 利用できる最善の証拠に基づくのでなければ、社会政策はいったいどのように決定されうるだろうか?生態学が妥当な解答を与えない場合は、最善の証拠は今でも人間は機械であるという仮定を含むことになる。あなたはその仮定を自分自身の「文化的」観点から拒むことは出来る。しかしそれであなたに「最善の証拠」を拒む資格が与えられたことにはならない。したがって、現在の状況では、社会政策決定は我々が機械であるという仮定を基になされるのである。

 我々は自己言及する人間的過程であって、機械ではないという明白な事実は次のような科学的な作り話によって了解される。コンピュータ化されたロボットはその条件とロボットのために計画されたことを実感する、というのだ。(それが.....を実感するとき―その実感が何であれ―、ロボット=人間は一人の「彼」に成る。)この話が物語るのは、彼が造られたことと彼が機械であることである。しかし、この話が示しているのは、或る機械がこの.....をすることが出来るなら(その人がすることが出来るのが何であれ)、それは人間であるということである。この.....には、自分の状況を享受しつつ、欲すること、感じること、行動すること、といった自己言及的過程が含まれる。彼が起源において人であるかどうかは殆ど重要ではないのだ。彼が機械のように扱われる際に自分の状況を享受することが出来れば、そして何かほかの事を欲し、それに基づいて行動できさえすれば、彼は機械ではない、のである。

 我々は実際ロボット=人間の位置にある、ただ違いがあるとすれば、社会政策決定において我々が機械であると見做されている事を我々のほとんどが未だ知らないという点である。しかしこれは科学的発見とかよく考えられた判断といったものではない。

 人々に彼らの社会の実際の政策が彼らは機械であると前提している事を知ってもらうことは大事である。この前提が広く知られ、それが発見の成果ではなくものすごく実り豊かではあるがしかし限界を持つ自然科学モデルの結果であると認められれば、現在の流れを少なくとも緩めることは可能になるだろう。

 

科学は社会制度である。

 フランシス=ベーコンが近代科学を創造した。多くの紳士が熱狂的な趣味として打ち込むような科学の実験からはいかなる社会的成果も生じない、とベーコンは考えた。もし彼らの発見が社会的規模で統合され、比較され、集められるならば、真の科学が生じるだろうということを彼は理解した。そしてそれはそう成ったのである。

 公的科学においては新しい発見は直ぐに広まる。それに関心を持つ全ての人に対して、それをどこに報告すればよいか誰でも知っている。更に、関心ある人は反応するだろう。発見は歓迎されるか競われる。広く追試され、それから受け入れられるかあるいは拒否される。

我々の場合は、現在、多くの一人称の科学は存在するが、単一の統合されたものはない。組織された公的科学はないし、それを報告する適切な場所も用意されていない。発見に対する反応も殆どない。それを嫌いな人は追試し、具合の悪い点を見出し、あるいは特に具合の悪い点がなければそれを受け入れる必要を感じないのである。

 人間科学においては先行研究に応答するだけを目的とした、あるいは具合の悪い点を判断するためだけの研究はこれまで殆ど無かった。

 現在でも数百もの実践的手続きが有り、その多くは多くの人にとって大変価値有るものである。しかし決定的な変数は実践する人の直観に留まっている。それは明確化が可能であるが、そのような明確化になんら公的動機付けや要求が無いのである。 科学的な観点から、どんな手続きが、何時実施されているか、を正確に確定する十分認識可能な諸指標を発展させたいと思う。しかしこの努力は今のところ報われないだろう。なぜならそれが他の種々の仕事と関連しあい、更なる発見に繋がるような公的科学が存在しないからである。

 一人称科学の可能性は公然と存在する。この種の科学は幾つもの場所で発展中である。一人称科学に関する多くの発見、無数の知見が存在する。未だ社会的に利用可能な知の総体として組織化され、比較され 、位置づけられてはいないけれど。もしそうなれば、それは大いに人類に貢献するだろう。それゆえそれは直に人がそれに相談し、それを考慮に入れざるを得ない第三の科学に成長するだろう。

 

多くのモデルの認知は科学の威信を高めることができる。

 我々が提唱しているのは、要素モデルへの敬意を少しも損ねることなく、別種の科学を付け加えることである。コンピューター、エレベーター、飛行機、電気等、今日社会がそれに依存している無数の技術に関しては、要素モデルの科学は我々の生活に大変深く食い込んでいるので、誰もそれ無しで済ます気は無いだろう。我々が主張しているのは、要素モデルの科学が唯一の科学ではないということと、それが与えてくれる現実が唯一の現実ではないということである。

 科学が否定し、無視し、不可能と考える多くの事実を人々は知っている。公的な科学が、一つのモデルにはその限界があることを認める姿勢を見せれば、科学の信頼性は高まるだろう。そうなれば、これまで排除されてきた様々な現象が馬鹿げた事として拒否されずに、残されて別の接近法を持つ科学によって研究されるだろう。科学への尊敬が、科学が否定する周知の様々な現象によってこれ以上損なわれることも無いだろう。

 今日広く科学は単なる政治勢力と見做されている。かなりの割合の人々がもはや科学を信じてはいない。今や妥当性を持つものは何も無い、という思いが広まっている。

 社会集団が要求するのでなければ、真理も価値も存在しないという態度で多くの学生は大学にやってくる。「家では私達はこれこれと言う、けれどもここではそれは間違いなく別の何物かになるのだ。それが何であろうと、私達は平気だ。妥当性を持つものは何も無い、と自分では分かっているから。」学生達は研究に表面的には価値を認めている。というのも先生達がそれを信じているから。しかし自分達では彼らはそれを一種のゲームと見做しているのである。

 今日多くの人は客観性の可能性さえ信じていない。というのも、発見は全面的に仮説に依存しているように思われるのだから。 彼らは、自然は実験に対して、我々が仮説の中で予期した以上の反応で応えるという事実を見落としている。自然は要素の一纏まりではないが、決して恣意的なものでもないのである。自然は常にまさにそのように反応する。自然は反応の客観性を持った反応する秩序である。単純な客観主義も単純な相対主義も要素主義に取って代わる唯一のものではない。

 

「進化」は無くなるのだろうか?

 要素モデルの科学があまりにも速く展開してきたために、人間がその結果に追いつくことが出来るかどうか、我々には分からない。産業と金融ネットワーク全体が、科学の応用の結果を人が知ることが出来るよりずっと前に巨額の金を投資する。そして今や科学自体が部分的に言わば「自動的な先導者」に乗っかっている。ある実験による発見は直接コンピューター入力され、次の実験を産み出すのだが、その際両者の間に有るものの意味をて人は自ら決定することはない。生態学は確かに、別の仕方であれば観られたであろう結果を明らかにはしたが、遅すぎてそれを避けることが出来ない場合だけであった。しかし、大抵の問題について要素モデルに替わる科学は存在していない。

 ブロンクス動物園の裏で(そしてその他の実験室でも)新しい動物が造り出されている。これを防ぐ意図で、ある人が私に訊いた事がある:「さて、あなたは無責任な人たちにこれをやってもらいたいですか?」

 最近「牛豚」のキメラが造られた。それは立つことが出来ない代物だったので、実質的には失敗作であった。またそれはずっと苦しんでもいた。「進化」が今、科学によって生じつつある、とよく言われる。しかし、かつては進化は生き物達のために有ったのだ。脂肪無しの豚の狙いは市場なのである。「上等」動物の特許は、たった一つの会社にそのために高い金を払わなければならない酪農家達に反対されている。生き物達のためということはどこでも考慮に入れられていない。

 要素モデルの科学は植物、動物、そして今では我々をも再設計しようとしている。或る病因遺伝子は既に取り除かれ始めている。もし誰かが、出産予定の子どもからそれを削除するためにお金を払えば、そのうちどんなことでも出来るようになるだろう。しかし身体的存在である人間は今でもものすごく多様なプロセスが可能なのである、したがって、種々の「自己」、種々の「内容」、種々の観察可能な諸結果を展開可能なのである。ある種の過程において、我々が見出すのは、身体が全く新しい、生を促進するステップを産み出す能力を持っているということである。 我々自身の諸過程を理解しないままに、人間を再設計する前に、体験的一人称の科学を設立しようではないか、他の二つの科学に代わってではなく、それらに並んで。

Last Modified: 27 May 2004

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