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フォーカシングを伝えるワークショップは、どのように教えたらよいか

   どんな長さのクラスやプレゼンテーションであっても、それに
応じて修正可能な、2時間版ワークショップ用のスクリプト

Joan Klagsbrun 博士 著 、 園田雅代 翻訳

* 著者 Joan Klagsbrun博士について

 私は、ボストンでフォーカシング・コーディネーターをしており、23年にわたってアメリカ国内ならびに海外で、フォーカシングを教えてきています。心理臨床家としてフォーカシング志向心理療法を実践しており、大学院生にフォーカシングを教えたり、一般の人向けのワークショップやクラスの指導をしたりしています。ここ12年ほどは、行動医学の会議において、保健医療に従事している人々に向け、フォーカシングをプレゼンテーション(実演を伴う紹介や提示)することも行っています。

 このスクリプトは、1999年3月にオーストラリアのLorneにおいて200人を超える保健医療従事者に対し、2時間のプレゼンテーションを担当したときの、録音テープにもとづいたものです。少人数のグループにプレゼンテーションする場合は、参加者たちが各々のステップにおいてあなたと「共に」いるかを確かめるべく、参加している一人一人から聴きながら進めていくのが最善でしょう。このスクリプトが、あなたにとって、フォーカシングをプレゼンテーションしていく上での、あなた自身のスタイルを見出すことに役立つものであれば、と祈念しています。
私に連絡をとりたい場合は以下の方法でお願いします。

・ 住所 :173 Mt.Auburn St., Watertown,MA 02472 USA
・ 電話 :(617) 924-8575
・ Eメール: joanklag@aol.com

 質問、示唆、感想などを歓迎しています。



(1) はじめに

 今日、フォーカシングのプロセスについて、ご参加の皆様方と分かち合えることを私は嬉しく思います。というのは、フォーカシングは私自身、そして私の仕事の両方に対して、深い変容をもたらしてくれているからです。私はフォーカシングを、教育活動や、クライエントとの、また、病気を抱えている患者たちとの関わりにおいて用いています。何か物事を決断するときにも、個人的な困難に対応するときにも、私はフォーカシングを使います。フォーカシングは一人でもできますが、フォーカシング・パートナーがいれば、よりよくフォーカシングは機能します。私はフォーカシング・パートナーに毎週会っています。そこではフォーカシングをする側と、それを聴く側を交代で行っています。

 この2時間では、フォーカシングの全てのプロセスを皆様方に伝えることはできませんが、フォーカシングについて、実際にちょっとでも味わっていただきたいと強く願っています。フォーカシングについてはじめて記載したのは、哲学者であり、また心理学者でもあるユージン・ジェンドリンですが、私は彼から23年前にフォーカシングを教わりました。私は自分の世界を大切にするタイプの人間ですから、フォーカシングが内的なプロセスであるという事実に強く惹き付けられました。ジェンドリンに向かって自分がこう言ったことを覚えています。「ああ、フォーカシングは、自分がずっと探し続けてきた手段です。これは、内向型の人間にとってのゲシュタルト・セラピーですね」と。

(2) フォーカシングとは何でしょうか?

 フォーカシングでは、まだはっきりとしていない曖昧でファジーなもの、それに見合ったピッタリとした言葉をまだ持てていない何か、でも、あなたの体のなかに明らかに感じ取ることができる何かに対し、それと共にいる時間を過ごすようにします。頭ではまだ気づいていない、体の中にある知恵とやりとりするのです。意識と無意識のあいだにあり、知性からだけでは得ることができないような情報に近付いていきます。フォーカシングでは、注意を体の内部に向け、あなたが特定の状況・関係・問題・個人などにどう対応しているかについて、注意を向けていきます。
 あなたが日々の生活で出会う全ての状況は、喜ばしいことであれ悲しいことであれ、大きいことであれ些細なことであれ、ある明らかな体のセンスをあなたに及ぼします。フォーカシングでは、この感じている体の微妙な言葉に、どうやって注意を向けていくかを学びます。今、あなたが最前列に座っていようと、最後列に座っていようと、今日どの椅子に座るかについて、体のセンスをお使いになったはずです。おそらく、「4番目の列にしよう。5つ椅子があるし」などといちいち考えたりはしなかったでしょう。でも、ご自分の体のセンスを用いて、もっとも快適と思えそうなところはどこかについて、感じ取ったのではありませんか。

 体験はひとつの川となって、あなたのなかを流れています。あなたはその川(の流れ)について語ること、また自分の注意を川岸に振り向けること、さらにその川の流れる方向を感じ取ることもできます。その川(の流れ)はすでにそれ自体の方向を持っているのです。すべての事柄に関して、あらゆる有機体、あらゆる体、あらゆる生物は、次への正しいステップについて固有のセンスを持っています。どんな関心ごとであれ、あなたがそれと共にいるようにし、曖昧なエッジ(辺縁)にとどまるようにすれば、次への正しいステップについてのセンスが生まれます。この点において、私たち人間は多くの知恵を有しており、フォーカシングとはその知恵に近付くためのひとつの方法なのです。

 では、この体験の川(の流れ)を、私たちはどこに有しているのでしょう?そうです、それは体の中にあります。けれども、私がここで言う「体」とは、器官の集合を意味していませんし、また、神経組織のネットワークすらも意味していません。あなたが記憶や感覚、情動、感情を体の中に保持している場合、この内なる知恵に近付いていくには、体に目を向けていく必要があります。そうした場合、頭の中でだけ考えて得られる情報とは違う情報を、人はしばしば得ることがあります。いわば、それは認知的な思考と内的な詩との違いであり、後者の内的な詩とは、全体的に暗黙のうちに、また、心と体とが二つに分割される前の、その両方が関わっているまさにその場所で、物事をつかみとっていく方法です。あなたは、体と心と精神が共にあるようなところを見ていくことになります。フォーカシングとは、普段人々が考えがちな分析的な方法を無視してもよいこと、そして、体験に関する体の声に率直に向き合ってよいことを認めるものなのです。

(3) フェルトセンスの例

 ジーン・ジェンドリンが1960年代にはじめてフォーカシングについて記載したとき、彼はこの体験の川について「体で感じるフェルトセンス」と呼びました。彼がそう呼んだ理由は、それを体のある感覚として感じ取ることはできるものの、同時に、それが単なるセンスでもあるからです。それは曖昧で、はじめは大まかな近似のようなものであり、明瞭ではありません。体で感じるフェルトセンスはあなた方にとって目新しいものではなく、誰もが皆、既に体験していることです。今日ここで私は、その体で感じるフェルトセンスを皆様がこれまでよりも把握できるよう、そしてそれを、あなた自身やあなたの仕事に用いるための適用を考えられるよう、お手伝いをしたいと思っています。

 さて、こういった体験をした人はいないでしょうか?あなたは家を出ようとしていて、何かを忘れたことに気が付いている。でも、それが何かがわからない。たとえば、この会議に出席するためにスーツケースの荷造りをし、何かを詰め忘れたというセンスが働く。そのまま家を出ることを続け、車に乗り込んでも、それが何かはおそらく思い出せない。でも、玄関のところにたたずみ、少し自分の内側にはいって、こんなふうに言うとしたらどうでしょうか。「何だろう?私は何を詰め忘れているのか?何をし忘れているのだろう?」と。そして、少し待ち、内側にある、自分が持っている曖昧なセンスに注意を向けていると、答えがしばしばやってきたりします。こんなふうにできるかもしれません。「オーブンを消したかしら?ええ、したわ。歯ブラシを持ったか?ええ、持ちました、と。ええと、それは何だったっけ?ああ、そうだ。読みかけの小説を持って行きたかったんだ。」こうつぶやいたとき、そこには大きな「そう、それそれ」があり、あなたは、自分が欲しかったものを得たことを「確かめ」られます。

 他の例も示しましょう。夢から目覚めて、夢の詳しい内容は覚えていないものの、それが楽しい夢だったか、恐ろしい夢だったかについては、センスがちゃんと残っているということ、これまでにないでしょうか? それがフェルトセンスです。さてどなたか、自分の夢をここに持ち出してくださる人、いませんか?

(参加者のコメント)

 はい、あなたはその夢について感じられること、夢の小さな部分、そして夢のより糸といったものに立ち戻り、優しくそれらをここに引き出してくれましたね。「その夢は、大勢の人と一緒にいたような感じだったけど」とか、「恐ろしい何かだった気がする」などと夢のことを言うかもしれません。あなたが体のなかで有しているもの、あなたが知っているものと共にとどまるようにすれば、時には、夢の全体があなたに戻ってくることでしょう。

 他の例を示します。このことは、この会議のなかであなたにちょうど起こっていることかもしれませんね。あなたが既に知り合いである誰かにここで会い、その人が知り合いだということがわかるものの、その人とどう知り合ったかが全く思い出せないとします。その人は、去年のこの会議に出席していたのか、昔の学校が一緒だったのか、
あるいは同じ街に住んでいる人なのか。その人を知っているというセンスだけがあるのです。その人の名前や、どうやってその人と知り合いになったかについて、あなたの心が思い出す前に、体はすでに多くの情報を有しているはずです。その人にあたたかく近づいて行きたいと思っているか、あるいはあなたにその人が気づかぬよう、きびすを返したいと欲しているか、こういうことを体は知っています。その人が誰であるかを脳は知らないのに、体がその人を好きかどうか知っているということ、これは興奮すべきことではないでしょうか?私たちは体のなかに、無尽蔵な知恵を持っているのです。

 また、誰かに「お元気ですか?」と問いかけられ、ただ「元気です」と答えたりしないときはいつもフェルトセンスを使っていることになります。自分がどんな調子かを見るために、自分の内側に入り込み確かめる時間を持っているわけです。そして、あなたは待ち、「それ」があなたに語るのにゆだねます。それで、「おやおや、私は疲れています。丸1日、ずっと疲れていますね」などと答えるかもしれません。それから自分の内側を確かめて、尋ねるでしょう。「それで合っている?私は疲れているのかな?」と。すると「それ」が答えるかもしれません。「うーん、疲れているわけじゃない。もっと空っぽになった感じ。そう、空っぽなんだ。私は空っぽになったように感じています」。あなたが「空っぽ」という言葉を言ったとき、体はより正確に、あなたの体験していることを示し、そこには大きな「そう,その通り」と、そして、自分にとって真実であることに触れたという安堵があるのです。

(4) フェルトセンスの練習:実習@

 フェルトセンスの実習を皆様方に体験して欲しいと思います。というのは、このフェルトセンスこそ、フォーカシングのプロセスの2つの中心的な部分のうちのひとつだからです。私は次の格言、「聞いた事は忘れてしまう。見たことは覚えられる、でも、自分が実際にしたことこそよく理解できる」は真実であると感じています。この数時間で、ご一緒にいくつか「実際に行って」いきましょう。さてそれでは、これからちょっとの時間をかけていただきたいのですが、その前に、膝の上のものを下に置いてもらったほうがいいでしょう。

 では始めましょう。大好きと感じている友達、会うことを本当に楽しいと感じている友達を、誰か一人、思い浮かべてみてください。誰か思い浮かんだかどうかを知りたいので、手を上げてみてください。 皆様方は多分、お隣の人に向かって、選んだ人をどうして好きかについて、おそらく語ることができるでしょう。でもここでは、それとはちょっと違ったことをしていただきたいのです。あなたの体の中を感じてみてください。その人が居るところでは、あなたはどのように感じますか?あなたの呼吸はどんなふうに感じられるか、あなたのエネルギーはどのように感じられるでしょうか(30秒待ちます。)はい、結構です。その人に向かって「さようなら」と言ってください。

 さあ、次に、あなたが今ちょうど会いたく「ない」と感じている人物を誰か、思い浮べてみてほしいのです。その人とあなたとのあいだに緊張があるからかもしれませんし、他の理由からかもしれません。いずれにしても歓迎したくない誰かを、あなたの想像力で見つけ出せるかどうか、どうぞ確かめてみてください。誰が自分のところにやってくるか、驚くかもしれませんが、どうぞ驚くままにしてください。誰か思いつきましたら、もう一度、手を上げてください。その人の居るところで自分がどう感じるかを、感じ取ってみましょう。その人が不意をうつ感じであなたに会いに来た、それでその彼、もしくは彼女が、あなたと一緒に居るということを想像してください。彼もしくは彼女と共に居るとき、自分の体をどう感じるでしょうか?もう一度、ご自分の呼吸に気をつけましょう。体の中心部に注意を払い続け、あなたがどう感じるかに気づくようにしてください。(20秒待ちます。)

 はい、結構です。その人に「さようなら」を伝え、彼もしくは彼女を遠くに送り出し、そしてこの部屋に意識を戻すようにしてください。好意的な感情を持っている人と、会いたくないと思っている人との間にどんな違いがあったか、その違いをどれほどの方が感じ取れましたか? 私たちは自分の体を持っていて、そして、体と共に状況を生きています。体の中に色々な人を持ち込んでおり、その人各々に対し違ったように感じています。今の2つの実習ではどう違っていたか、誰か発言していただけますか? 肯定的な気持ちを持てる人に、あなたはどのように感じましたか? 否定的な気持ちをいだいている人にはどのように感じたでしょうか?

(5) 実習@の後のコメント

 (発言者の)キャロル、ありがとう。もう一回繰り返させてくださいね。
 肯定的な気持ちを持てる人と一緒のときは、呼吸が開かれたように感じ、相手をいだいているように感じたのでしたね。抱擁したいという感じ。そう感じることができたんでしたよね。否定的な気持ちをいだいている相手と一緒のときは、呼吸が浅くなって、ちくちく痛む感じを内側に感じたのでしたね。この「ちくちく痛む」というのは、偉大な言葉ですね。フォーカシングでは、体にもとづいた言葉を見付けるようにします。なぜなら、私たちは実際に、体の中でそういった言葉を体験するからです。

 フェルトセンスは体の感覚ですが、しかし、それはベルトをきつく締めすぎているとか、昼飯を食べ過ぎてしまったといったような感覚のことではありません。自分の生活や人生に何らかのつながりがあると、あなたが知っている感覚なのです。それが何に関係しているかについて、あなたは既に知っているかもしれませんし、あるいは知っていないかもしれません。が、いずれにしてもフェルトセンスは明らかに、生活や人生の何かに対して意味のセンスを持っています。

(6) フェルトセンスと共に行うという例

 例をあげましょう。あなたが仕事である家族メンバーと電話で話したとします。ちなみに、その家族メンバーは調子が悪い状態です。あなたは電話を切り、締め付けられるような感じをいだきます。締め付けられる感じ、かつ否定された気分を味わいます。さて、私たちの多くはこういったときに、このような感情を「まあ、このことについて自分が多くのことをできるわけじゃないし。切り換えて他の仕事をこなさなくては」と考えることで無視しようとしがちです。しかし、もしあなたが自分に正直であれば、2時間後になっても、その締め付けられる感じがまだそこに、腹部のなかにあることをあなたは感じ取るはずです。

 フォーカシングを用いるならば、電話を切った後、その締め付けられる感じをまずは認められるようにし、そこから逃げ去るのではなく、それに挨拶しようとします。フォーカシングでは通常、人々が後方に追いやってしまおうとする物事を目立つところに持ってこようとします。そして「こんにちは、「締め付けられる感じ」さん。あなたはそこに居ますね」などと語り、非常に友好的なやりかたで、それがあなたに何か話しかけてくるように頼みます。はじめのうちは注意をただそこに当てるようにし、それと共に居るようにします。あなたに意味のある、こういった体の感情と共に居るということ、これは実に力強いことです。それからあなたはこんなふうに言うことでしょう。「オッケー、「締め付けられる感じ」さん、「締め付けられる」が、ピッタリした言葉かしら?」と。すると2,3秒のうちに、それが言ってくるかもしれません。「本当は、締め付けられるではない。それはもっと・・・・否定される感じ」そこであなたはその言葉を確かめようと、それに「こんにちは」と挨拶をし、待ちながら、こんなふうに尋ねるでしょう。「何がそんなに否定される感じなのだろうか?」と。あるいは「何がそんなに締め付けられる感じなのかな?」と。こういったことを優しい、受容的な調子で尋ねれば、それはあなたに返事をし、こんなふうに言うかもしれません。「私の感情は傷ついています。あの電話のやり取りは、傷つく会話だったもの」と。

 自分の感情が傷ついていると知るのは良いニュースというわけではありませんが、とにかく、それが真実なのです。あなたが自分の体に運んできていた真実が、あなたに向かって語るとき、そしてあなたがそれを名づけ、それと会話を始めるとき、あなたはしばしば、安堵感や解放感を味わいます。フォーカシングは、この体のセンスと会話を持つことであり、あなたがこれまでも共に生きてきた、しかし、まだ名前をつけることのなかった真実と、会話をすることなのです。それは開放的であり、またストレスを緩和することでもあります。

 フェルトセンスは時には、パワフルで強大でもあります。あなたが電話を切り、締め付けられる感じを味わったとき、あるいは、誰かがあなたに向かって金切り声を立てたり、あなたが上司に提示したものについて、上司が見るも無残で悲惨な言い訳でしかないとあなたに決め付けて言ってきたりしたときなど、そこには強い体のセンスがあるはずです。けれども時によっては、体のセンスはもっと微妙なものであり、もっと曖昧模糊としたものです。体のなかにそれが何かを伝えてきてくれるのに、30秒ほど待たないといけない場合もあるでしょう。もしも私が皆様方に今、2年ほど会っていない従兄弟についてどう感じるかを尋ねたとしたら、体にすぐにそのセンスが出てくるというのではないかもしれません。あなた方は、何かを得るまで待ち、その人物をありありと思い描けるようにする必要があるかもしれません。フェルトセンスがそこにあるはずと信じる必要がありますし、実際のところ、少しの時間をかければきっとフェルトセンスはそこにあるとわかるでしょう。時によって体のセンスは強かったりもしますが、一方で、初めのころ大変に曖昧なものであり、そこに現れてくるまで辛抱強く待つ必要があったりもします。

 私が「体の(ボディ)センス」という場合、体の中央部を示していることにお気づきのはずです。体のセンスについては、のどや胸、胃や腹部の間のどこかを探すのが一般的です。体の中央部のどこかに意味が生じやすく、私たちはそこに何かあると感じやすいからです。この体のセンスについてチャクラと関連があるという人がいますが、もしかするとそうかもしれません。中央部でない他の場所に、体のセンスを感じたという場合もしばしばありますし、それと共に行っていくこともできます。が、はじめは、体の中心部にその体のセンスを置いてみるのがよいでしょう。何が生まれてくるか、興味深いですね。たとえば、頭痛があったとき、「私の体の中央部にこの頭痛を置いてみたら、それはどんな感じがするだろう? ここ(中央部)に頭痛があるとしたら、頭痛は何を感じるだろうか?」などと話しかけてみるといいでしょう。時にはその頭痛が何かをあなたに語り、変化していくかもしれません。そして、もはや頭痛にからめとられている感じがしなくなるかもしれません。なぜなら、頭痛の意味をあなたが理解し、それが解放につながり、時には、頭痛そのものの解放がもたらされることもあるからです。

(7) フェルトセンスの練習:実習A

 体のセンスについての、もうひとつ別の実習をしましょう。この体のセンスは、自分自身の中にだけ感じ取れるわけではなく、自分と他の人々との間にも感じ取ることのできるものです。リーさんに前にできてもらって、ボランティアをしていただきましょう。皆様方もあとで、お隣の人と向き合って欲しいと思います。私とリーは立っていますが、皆様方も実際にするときは立ってくれてかまいません。私はこうやって、リーの顔に向け自分の手を徐々に優しく近づけていきます。その間、リーは自分の体の中心部に注意を保ち続けるようにします。彼が体の中で「ストップ」と感じたら、たとえば私の手が自分に近づきすぎているなどと感じたら、「ストップ」と言います。さて、ではやってみましょうか。勿論、目は開けておいてください。そうでないと、近づいてくる手を見られませんから。(間)私は彼の顔に向けて自分の手をゆっくりと動かしていきます。

リー(5秒後に)「そこでストップ」
オッケー、ではもう1回、やってみましょう。(間)
リー「ストップ」

 2度目は少し違っていましたね。でも、いつも違うというわけではありません。片方がし終えたら、交代して、今度はもう一人の人がまた、自分の手を相手の顔に近づけていくようにします。ここで皆様方に気づいて欲しいのは、相手の手をどのへんで止めるのがいいかについて、頭で「あらかじめ決める」のではないということ。あなたの「体は」、近づかれすぎる不快がいつから始まるかについて、1ミリ単位までピタリと知っているのです。ではこれから、この実習を皆様方にしていただきたいのですが、その前にひとつ言っておきたいことがあります。この実習は、自分自身について深いことを明らかにしていくというもの、たとえば、あなたが(他者と自分との間の)境界について、良い境界を持てているか、あるいは悪しき境界を持っているかとか、あなたが(人に)近しい感じをいだいているか疎遠な感じをいだいているか、などについて示すものではないということです。この実習はただ、この特定の人に対してこの瞬間に、あなたがどうなのかを映し出しているだけです。準備がよければ立って、ペアを組む相手を見付けてみてください。

(8) 実習Aのあとに

  どうでしょう、どなたか興味深い発見をした方、いますか?

(参加者の発言)

  あなたは全然、境界を持つことなく、相手の手が自分の顔に触れても大丈夫だったんですね。なるほど、それはすごいですね。他の方はいかがですか?

(参加者の発言)

 皆様、聞こえましたか?聞き取れなかった方のために、もう一回繰り返しましょう。彼女は、お隣の人ととても近しい感じをいだいていたので、だから、おそらく相手が手を近づけ、顔を触るようになっても大丈夫だろうと考えていた。でも実際は、相手が手を近づけてきて、子豚型の貯金箱にお金をチリンと落とすかのように手が迫ってきたとき、何かが「ノー」と言った。今の例は、頭で考えていることが、体のなかに実際にあるものと必ずしも一致するわけではないということ、このことを示す素晴らしい一例といえます。

(参加者の発言)

 ご質問は、これには文化的な関連性があるかについてですね。はい、勿論、文化的なこともこの一部に関わっていますし、ジェンダー(性役割)も同様でしょう。そして、あなたが相手の人を知っているかどうか、初対面の人かどうかなども、全て関係してくるでしょう。違った状況であれば、また違ったように反応することと思います。けれども、誰かに対して、どのくらいまでなら自分に近づいてもらいたいのか、これを知るには自分の体のセンスに常に頼ってよいのです。職場で、自分の望ましい感じを超えて患者さんが近づきすぎたとか、逆に遠くにいすぎたなどの体験をしたことがありませんか?私たちは皆、自分にとって適切な対人間の距離がどのくらいかについて、体の中で感じ取るセンスがありますし、また、そのセンスに耳を傾けることができます。

(9) フォーカシングについての研究

 このフォーカシングのプロセスは、1960年代に行われた心理療法に関するいくつかの研究から始まりました。当時シカゴ大学に所属していた、ユージン・ジェンドリンとカール・ロジャーズは、次の問いについての研究をしていたのです。「何故、心理療法において、ある人々はより良く変化し、一方、そうでない人々もいるのか? 彼らは、何百という心理療法のセッションを用いたのですが、それには、精神分析・クライエント中心療法をはじめ、他の様々な療法もふくまれており、多様な立場のセラピストを網羅するものでした。彼らがしたことは、初回と2度目の心理療法のセッションの、はじめの5分もしくは10分について、その録音テープを聞くことでした。録音テープはランダムに(特定の意図を働かせないようにして)選ばれたものです。そして、彼らはそのはじめのわずか5分もしくは10分の録音テープから、どのクライエントが1年ほどの心理療法を通じてより良く変化するか、予想を立てることができたのです。なお、「より良い変化」は、クライエントの自己報告やセラピストの報告とあわせて、いくつかの効果測定尺度により測定されました。

 とりたてて何も起こっていない、セラピーのまさにはじめのところで、どのクライエントがより良く変化するか、彼らはどうして予想できたのでしょう。ジェンドリンたちは、セラピストがどのような立場や流派であるかということ、また、セッションの内容が何に関するものであったか、たとえば、子供時代の早期のことについて話したかどうかとか、その週に何があったかということとは無関係であったと見出しています。違いを生み出しているのは、クライエントが話すその話し方にあったのでした。体験の川(の流れ)にのっとって話をする人々や、自分の内側のプロセスから語る人々は、より良く変化をしており、頭だけで話す人々はそうでありませんでした。では、前者の話し方とは、どんなふうに聞こえるものでしょう?たとえばこんな感じです。

 「昨晩、妹と喧嘩して、私は妹に本当に怒ったし、凶暴な思いをいだきもしたわ。ええっと、ちょっとそれは違って・・・。本当はもっと何かあって、怒りの下にあるものについて考えてみると、私、妹に心底、がっかりしたんだわ。そう、彼女は私のためにちゃんとやってくれなかったんですもの。そうですね、私はがっかりしたんです。」
このクライエントは、何かを言ってはそれをチェックし、修正し、言い換えたりしています。その言葉が、自分に本当にピッタリなのかを確かめるために、です。

 こういった人は、曖昧ではっきりしていない何かと共に、とどまっていることができる人です。既に知っていることだけを言うのではなく、まだはっきりわかっていないことに向かって進んでいき、そしてそれを言語化しようとします。彼らの話し方は、つっかえたり、間があったり、繰り返しだったりしがちで、直線的にどんどん進むという話しぶりではありません。しかし、そういった人々がより良く変化する人々だったのです。なぜなら、認知的に理解できること以上に体のなかにより多く感じることができる場合、変化は生じるからです。こういった人々は、表面に出ていて容易に到達できることだけを使いたがったりせず、はっきりとしない、曖昧な、そして複雑な何かと共にとどまっていようとします。

 フォーカシングは、こういった成功するクライエントたちがセラピーでしていたことを公式化したものなのです。それはちょうど音楽や芸術的な能力と似ていて、自然にその種のことをできる人もいれば、できるようになるのにちょっと多めに練習しないといけない人もいるでしょうが、いずれにしても、人間が皆持っていることであり、それと共に行っていけるものです。ジェンドリンはこういった人々について研究をし、彼らのプロセスを記述し、心理療法のなかで他の人々に教えられるよう、6つのステップによるプロセスを提示しました。その後の研究によると、この自分の内側にフォーカスすることを学んだ人は、そうでない人に比べて、心理療法でより良い効果をあげられると導き出されています。つまり、心理療法の成功と相関があったというわけです。

 間もなく、クライエント以外の多くの人々もこの技法を学びたいと欲するようになり、ジェンドリンは広く教え始めるようになりました。彼は30年以上にわたって、フォーカシングを教え続けてきました。フォーカシングは、日本・ドイツにおいて、そして昨今では米国・カナダ・ヨーロッパ・オーストラリア・南アメリカにおいてもよく知られ広まっています。今や世界中に、と言えるでしょう。フォーカシングはセラピーにおいてだけ使いうるものではなく、医学・ビジネス・建築・精神世界・創造性などの分野で、つまり、癒すことと理解することが探し求められているところならどこででも使えます。そして、既にあなたが「深入り」して、よくわかっているようなところからだけ進めるのではなく、あなたがまだ「知らない」、でもあなたの内部で感じ取れている、そんなところもフォーカシングには含めることができます。

 私の意見では、ジェンドリンは天才であり、まぎれもない国の宝といえる人物です。アメリカ心理学会は、彼の業績に対して、第1回「卓越した心理学者賞」を与えました。私たちの多くがしっかりとは理解していなかったことを、しっかりと理解していった点、つまり、何かを私たちが感じると、ステップがそこから生じてくるということを理解していった点、ここにこそ彼の天才ぶりがあると私は考えます。私たちはしばしばこのことを無視しがちなわけですが。ジェンドリンの貢献のひとつは、彼の次のような言葉にあると言えましょう。「自分の注意を、曖昧で、はっきりとしていない場所、そして、何かがありそうと感じているようなところに向けてみよう。」

 そう、たとえばあなたが家を飾りつけしているとしましょうか。部屋がどんなふうに見えるようにしたいか、そのことに注意を払います。「そうね、何か、あんな感じにしたい・・・・ちょっと待って、何かってどんな感じだろうか」などと言うかもしれません。そしてちょうどそこにとどまっていたら、こんなふうな思いが生まれてくるかもしれません。「部屋を、開放的で親しみやすい感じで、でも整えられた感じにしたい。」飾りつけに関して、あなたの中に何があってもそれに「耳を傾ける」ことができるでしょう。あるいは、何かを決定をしないといけない場面で、それを感じることになるかもしれません。理性の面では「私はこうすべきだ。前に進むべき」と明らかに言っているときでも、あなたの内部の何かが「う〜ん」と言っている。こういった体験を皆様方はしたこと、ありませんか?あなたに届いている、この「う〜ん」に対して、もっと聴くようにしたら、それはさらに何かをあなたに語りかけてくるでしょう。自分の内部に静かにおりていけば、「それで、そこにある「いや、違う」は何なのだろうか? ああ、本当に「いや、違う」が生まれてきている。それは何だろう?」などと自分に言うことができます。そして待ってみてください。「それ」があなたに語りかけてくるでしょうから。

 フォーカシングとはこんなふうに待つことを含むわけですが、わが国の文化において、待つことは簡単にできることではありません。私たちの大半は、誰かに対してよりも自分自身に対して、よけいに荒々しい態度をとりがちです。隣席の人があなたに向かって、「ちょっとしたアイデアがあるんですが、でもそれが何なのか、はっきりしていなんです」と言えば、あなたはその人がはっきりできるようにと忍耐強く待ってあげるかもしれません。他者に対して待つことができても、自分に対してだと、忍耐を持つこと、親しみを込めた感覚を向けてあげることは難しいものです。さて、私は今、フォーカシングの2つ目の側面のところにきているようです。一つ目の側面は「フェルトセンス」でしたが、それは体の中からやってくるものであり、待っていると、あるひとつの言葉や、いくつかの言葉、イメージやジェスチャーなどが生まれてくるというものでした。そして私たちにはシフト(自然発生的な変化)が起こり、そのシフトは何かを開き、また私たちに何かを語りかけてくるのです。フォーカシングの二つ目の側面とはこの態度のことですが、それを私たちは、「フォーカシング的な態度」と呼んでいます。

(10)フォーカシング的な態度

 私たちは、愛しているおさなごを扱うようなやりかたで、意識的に自分自身を扱う必要があります。もしもおさなごがあなたの膝の上に座り「あなたのこと、大、大、大の大きらい。ゴミ箱に放り込んじゃいたい」と言ったとしたら、あなたはおそらく、こんなふうに返すでしょう。もしその子のことを愛していたならば、ですが。「うん、それもいいよ。あなたは自分の気持ちがぐじゃぐじゃって感じているようだね。どうしたのかな?」その子どもは柔らかい感じになり、おそらくあなたをぎゅっと抱きしめてくるかもしれません。それと同じことが、自分自身の内側にも言えます。感じ取ろうとする姿勢や、優しさ、親切な思い、親しみを込めた感じ、そして受け入れようとするセンスを持って、私たちが内側のものを扱ったなら、それは好意的に反応を返してくることでしょう。仮にそこで見出したものが自分の好まないものであったときでも、とにかくそれがそこにあるわけですから、今述べたような態度で接するようにします。つまり、同じように親しみを込め、それを理解しようと、そして受け入れようとするのです。そういったことが生じると、こういった「内側の」場所は私たちに向かって何かを語り出し、開かれ始め、そして変化するようになります。自分の感情を打ち消そうとすることに人々は非常に多くの時間をかけていますが、そうではなく、親しみを込めた仕方でそこに腰をおろし、その感情に耳を傾けさえすれば、ただそれだけで数分のうちに、恐怖がやわらいだり、あるいは怒りが消えたりしていくということ、これは何とも皮肉なことに思われます。

(11)フォーカシング的態度についての実習

 さあ、それでは、皆様方にある態度、ある性質を選んでいただきたいと思うのですが、それは今日のこの会議の間中、こんなふうに自分は自分自身を扱っていきたい、という態度や性質についてです。自分を扱う仕方について、どんな言葉があなたの心をとらえますか?何か思いつきますか? 皆様方に、正直な反応を保っていただきたいので、これまでの実習で既に組んだことのある人を見付け、その方に、あなたの立会人になってもらい、その思い浮かんだ態度や性質についてどうぞ話してください。その人に向かって、あなたが今、思いついている性質は何かを話してみて欲しいのです。いいでしょうか?どんな性質が語られたか、どなたか発言いただけますか?

(参加者) 尊敬、平和、落ち着き、あわれみ深さ、親切、自発性、愛情、養育

 ここで、ある実験を皆様方にして欲しいと思います。今のような性質について、単なる思いつきとして持つだけではなく、多分、目を閉じたほうがいいかもしれませんが、もしも、あなたが今日の残りの時間、その性質で自分自身を扱ったとしたら、そしてこの性質を十二分に体験したとしたら、体の中にどんな感じがするか、このことについて想像してみて欲しいのです。そんなふうに自分を扱ったなら、あなたはどんなふうに感じるでしょうか? 

(間) そこに、かすかな呼吸、小さな開け、あるいは自分にはちょっと違う感じがした、といったようなシフトがあるか、感じてみてください。それから、準備ができたら意識をここに戻してみてください。

 性質について(頭で考えて)知ることと、それを体の中央部のここに置いてみること、これらの違いを感じたかどうかについて、皆様方からお聞きしたいのですが。どなたか何か変化がありましたか? 発言したい方、いますか?

(12)参加者への反応

(最初の参加者へのコメント)
 彼女は、自発性をもって自分を扱うことを想像したとき、シャンペンの泡のような感じ、そう、泡立つ感じをいだいたのでしたね。何かを感じた方、他にもいましたか?体の中で感じたのはどんな感じでしたでしょうか?

(2番目の参加者へのコメント)
 彼女の言葉は励ましだったわけですが、励ましと共に生きること、励ましを自分の内側に取り入れることを想像したとき、彼女はエネルギーが自分のうちに沸きあがってくるのを感じたのですね。

(3番目の参加者へのコメント)
 彼女は、自分に対して愛情を持って接したかった。で、それを体の内部においたとき、自分を慰撫するような感覚が生まれたのでしたね。

(4番目の参加者へのコメント)
 そう発言していただいたことに感謝します。彼女が体験したことは、自分を愛情深く扱いたかった、で、それを自分の体の内側に向けて進めてみた、そうしたらそこに悲しみがあることを見つけた、こういうことでしたね。それはよく理解できることです。実際に得るものが、しばしば、自分の期待していなかったものだったりします。もしもあなたがその悲しみと共に進み、それと一緒に腰をおろしてみたら、それがあなたに向かって何か話してくるのでは、と思いますが。

(5番目の参加者へのコメント)
 おそらくあなたはご自分に対して、十分に愛情深くは接していないのかもしれませんね。ほんの少しの間、その悲しみと一緒にいること、それを見てあげること、できそうでしょうか? もう一度言いますが、それに対して親しみを込めてあげる必要があります。「悲しみ?いったい何を私が悲しんでいるっていうのよ」という感じであなたがそれに語るとしたら、それは語り返してこないでしょう。こんなふうに言ってみてください。「ああ、そこにあるのは悲しみなのね。私が自分に愛情深く接することを考えると、自分のなかの何かが悲しいと感じる。そこにあってそんなに悲しいというものと、私は少し一緒にいられるだろうか?」そして、あなたが答えてしまうのではなく、何がそんなに悲しいか、それに自由に語らせるようにしてください。中身について私たちに話す必要はありませんが、何かがそこに生まれたでしょうか?そのようですね。彼女の表情からそのことがうかがえますもの。

 フォーカシングについてもうひとつ、フォーカシングでは各人が十分にプライバシーを守れるということを言いたく思います。あなたやクライエントが行うことは、かなり深い作業かもしれませんし、それについて他の第三者に話す必要はないわけです。かなり長期にわたって一緒に関わってきたクライエントに対してでも、私はしばしば次のように言います。「ご自分のために、それを得られるよう進めてください。いつも必ず、私と物事を共有しないといけない、そんなふうに思わないでくださいね。」共有しないといけないと前もって知っていたら、それは生まれてこないかもしれません。あなたが実際にそれを得られると感じるのは素敵なことですが、誰かと共有するときに、内容について共有してもいいですが、そこに生まれてきたイメージや言葉だけ、たとえば「干からびたスバゲッティのよう」といったようなもの、それだけを共有するのでもいいのです。それが、あなたの抵当権に関するトラブルを意味しているのかとか、結婚生活のトラブルを示しているのかそうでないのかについては、知る必要がありません。なぜなら、共有する上で重要なのはイメージですし、体が言っていることが大事なのであって、ストーリー(話の筋)そのものは必ずしも大事ではないからです。

 フェルトセンスとは、素晴らしい現象です。ある特定の状況についての、私たちの内なる知、そして、私たちがまだ知らないものの、知ることが自分にとって非常に有益であるような何かをフェルトセンスは内包しているのです。

(13)簡単なまとめ

 ここで簡単なまとめをし、それからフォーカシングの別の実習をしましょう。フォーカシングとは、私たち人間が考えたり感じたりする全てのことは、私たちの体の中に身体的なセンスを生み出すといった考えに基づいているものです。フォーカシングはいわば、体のセンスとの対話を発達させるための方法です。頭だけで何か考え出すというのではなく、あるアイデアを持ったなら、それについて行ったり来たりしてみようとするものです。たとえばこんなふうに自問できます。「この決定は正しいと感じる。そうだよね」と。するとそこに何かがあって、「う〜ん」と言ってくるかもしれません。あなたは「何が正しくないんだろうか?」と言い、待ちます。あなたの体は「まだ早すぎる」と言います。あなたの心は「いや、いや。ちょうどいい時期だ」と言うかもしれません。けれども内部の何かがまだこう言うのです。「ううん、早すぎると感じるよ」と。こんなふうに、体の知恵と日々の心(精神)のあいだを、あなたは行ったり来たりします。

 フォーカシングをすると、2つのことが生じます。ひとつは、新しい情報を得ることです。しかし、もっと重要なことは、あなたが解放を得ること、そして、体にシフトが生まれるということです。ジェンドリンはこのことを「フェルトシフト」と名づけています。それは時にはドラマチックですが、時にはささやかな呼吸だけということもあります。が、いずれにしても、あなたは何か新しいものをいつも得るはずです。ですから、フォーカシングをしているとき、数分間、出てくることがいつも同じもの、変わりばえしないものであったなら、「お願いです。外でちょっと待っていてもらえますか」とそれに言い、もう一度戻って何か清新なものを得ることができるかどうか、見ていくのがいいでしょう。解放といったたぐいのものを得られるとき、それが清新であるということは、皆様方、ご存知のはずです。

(14)臨床的な実例

 最近私は、MS(多発性硬化症)と診断されている、一人の患者と関わりを持つことがありました。彼は、自分の病気について話していましたが、「体験の川(の流れ)」よりも上の部分でだけ、ずっと話し続けていました。それで私は、「あなたにとって、この病気について最悪なことは何か、それを体の中でただ感じ取ってみることをしてみませんか?」と言いました。彼は目を閉じ、注意を自分の内側に向けました。内側にはいりながら、彼は30秒ほど待っていました。それから彼は「それは、お話にならないほどの残忍さだ。そう、それは残忍さです」と言いました。これは新しい情報でした。最悪なことが何であるかについて、彼はそれまで知らなかったわけですが、「残忍さ」と言ったとき、目に涙が浮かんでいました。病気が大したことでないかのように振舞いながら、病気がそれほどにも残忍であるということ、それがこれまで自分にとってどれほどずっと過酷なことだったかを彼は感じ取ったのでした。体のシフトが得られたとき、しばしば涙や、時によっては笑いが生じます。時々、呼吸が開けた感じになり、平和と調和を感知するセンスが体のなかにやってきたりもします。フォーカシングは際立ってストレスを軽減させてくれるものなのです。

 ジェンドリンは心理学者であると同時に哲学者でもあり、「体験過程と意味の創造」という題名の本を、フォーカシングやフォーカシング志向心理療法に関する著作の前に書いています。フォーカシングは、暗黙の知に関する包括的な哲学に基づいています。実存主義者やハイデガーと関連があり、内なる変化は体のプロセスである、その変化は実際に体のなかに起こるという概念に依拠しています。そして私が既にお話ししたように、認知的に理解できることよりも多くのことを体の中で感じ取れる場合、変化は生じます。あなたがエッジ(辺縁)のところにまさにいるとき、そここそが新しい何かが生じてくるところです。何かについて私たちは何時間でも延々と話し続けることができますし、私たちが知っている何かに関し検討を加えたりもします。しかし、私たちがまだ知っていない、しかし何かを感じ取ることができる、まさにそんなところに触れることができるならば、変化はそこから生まれてくるのです。

(15) 「大好きな何か」におけるフォーカシング練習

 皆さんの体のなかにある知恵を解き放つ体験をしてもらいたいと思います。人間以外で、大好きだ、特別だと思える何かを、どうぞ考えてみてください。大好きなペットでも、自然の風景でも、部屋に置いてある美しいものでも、何でもかまいません。何であれ、たったひとつだけを選んでください。そしてそれは、「先週、とても大切だと思った」といったものではなく、今日のあなたにとって意味あるものであること。「私はこれが好き」、「これを特別だと思います」と、今日あなたが口にする場合、心の中に生き生きとした感情を味わえるはずですから。「これだ」と思えるものを探し当てるまで、少し時間をとって、いくつかの選択肢を吟味してみてください。探し当てたと思えた方は、わかるように挙手をしていただけますか?

 まだ見つかっていない方は、単純に「わたしは何が好きなんだろう?」と問いかけ、しばらく待ち、何が浮かび上がってくるか考えてみましょう。ただし皆さん、これからやっていただくことの結果を見るまでの数分間は、一度選んだものを変えないでくださいね。いいでしょうか、では、選んだものが体のなかでどのように存在しているか、感じ取ってみるときです。目を閉じて意識を集中させ、自然の風景のなかにいたり、ペットと一緒にいたりするのがどういう気持ちなのか、感じ取ってみましょう。そのなかに、明確なものであれ曖昧なものであれ、体のセンスが見つかるかどうか、確かめてみてください。

 では次に、いま感じている体のセンスにぴたりと当てはまるような単語や言葉がないか、考えてみてください。はじめに思いついた言葉がぴんとこなかったら、こだわらずに、もっと良いのがないか探してください。時間をどうぞかけてください。自分自身に、「どうしてこれがそんなに特別なのだろう。これのどこが好きなのだろう」と問いかけましょう。考えが横道にそれたら元に戻しながら、自分が特別だと思っているものの深みをとらえうる、ぴったりの言葉がないかどうか探してください。ぴったりと感じられる言葉を見つけたとき、どんな違いが生まれたか注意してみてください。あなたが本当にそれをつかみとったとき、「これだ」という小さな肯定や、開かれる感じや、自然なうなずきが生まれたでしょうか?

 準備ができましたら、意識を部屋に戻してください。その単語や言葉は、ジェンドリンの言う「ハンドル」というものです。口にしたときに、体のセンスをつまみ上げるようなものが、その言葉となります。そう、スーツケースのハンドルのように、です。いわば恩恵であるような「ハンドル」を、恣意的に生じさせることはできません。ですから、ただただ座って、何かについての体のセンスを感じ、「ハンドル」がやって来るかどうか待つしかないのです。皆さんのなかで何人が、ぴったりと合う、本当にあなた方自身の助けとなるような言葉を見つけられたでしょうか?

(16)練習の続き

 いいでしょう、半分くらいの方が成功したようですね。見つけられなかった方もいらっしゃるようですが、いずれ浮かんでくるのではないでしょうか。私の経験をお話しましょう。その後で、皆さんに、各々の経験について誰かと――さきほど話しあった方ではない誰かと、話しあっていただきたいと思います。

 私が思い浮かべたのは、本当に大好きな、とある場所でした。アメリカ、マサチューセッツ州のバークシャー山脈に位置する場所です。でもそこを思い浮かべたのですが、いま自分が家から遠く離れた所にいるからだったのでしょうか、何も起こりませんでした。私はそれについて、ある意味死んでいるようでした。ですから、そこについて考えるのをやめ、「本当に大好きなものは何だろう?」と考えなおしたのです。と、突然、数日前の情景が浮かび上がってきたのです。そのとき私はヤラ駅にいたのですが、カンガルーの群れが数ヤードの距離に迫っていました。生きたカンガルーを見たのは初めてのことでした。私はただ座って、想いをめぐらせました。草むらでは、カンガルーがぴくりとも動かず、じっとしています。私が立ち上がったときカンガルーの群れも起き上がり、私の目の前で、牧草地を跳ね回ったのです。

 このときいちばん最初に思いついたのが、「優雅な」と「優美な」という単語でした。でも、それはたしかにそうなのですが、私の体のセンスには実際には何も働きかけませんでした。カンガルーを前にして思った気持ちを、その言葉はとらえてはいなかったようです。少し待ったあとで浮かんできたのが、「朗らかな」という単語、そして「朗らかに喜ぶ」という言葉でした。「朗らかに喜ぶ」と、ふたつの単語を続けて言ったとき、「優雅な」や「優美な」などといった単語よりも、カンガルーを前にした体験をより的確にとらえられていたのです。“心”では、「優雅な」「優美な」のほうが好ましいと思っていました。というのは、「優雅な」という言葉は「朗らかな」という言葉より響きが良いからです。でも体は、どちらのほうが本当に適切なのか、つまり、あの体験にぴったりくる言葉は何なのかをわかっていました。

 さて、皆さん、誰か他の人に、「自分が選んだ対象がどのように浮かんだのか、何度か考えなおさねばならなかったか、それともすぐに思いついたのか、それらのペットや場所や物を思い浮かべているあいだ、いくつかの言葉を吟味しなおしたのか、それともすぐにぴったりの言葉が浮かんできたのか、また、実際に、正しい言葉を見つけることは、本当にできているのか」について、語ってみましょう。

 そうだと言う人も、そうじゃないと言う人もいるでしょう。ペットへの愛を真に表す言葉を、まだ待っている人もいるでしょう。それぞれ数分間、相手の人に話してみてください。それから、また皆さん一緒の作業に戻りましょう。まだ話をしたことのない相手を見つけてくださいね。

(17) 「大好きな何か」の練習に対する反応

 皆さん全員、誰か他の人と話し合いましたか? ご自身の経験について話したいという方はいらっしゃいますか? はい、あなた―― 

(参加者)

 では、彼女が大好きだったり特別だと思えたりするものは、ヤモリだということですね。

(参加者)

 すてきですね。つまり彼女は、最初に内なる笑みを感じ、それを長いこと、ためつすがめつするうちに、ある言葉が浮かび上がってきたというわけです。「うっとりとした」という言葉が。うっとりとする、それが彼女にとって、ヤモリのどこがそんなにも特別かという点なわけですね。大変すばらしい例でした。ありがとう。
次の方――

(参加者)(長めの話)

 とてもすばらしいお話ですね。繰り返しましょう……。いま彼女の庭には、シュウメイギクがちょうど咲いたところなのですが、いちばん最初に浮かんだ言葉が「平和」と、もうひとつが……

(参加者)

……「充足感」だったそうです。でもこれらの言葉は、悪くはないのですが、体のセンスを解き放つのには役に立たず、何も働きかけなかった。もう少しで諦めて全く違うもの――馬――を選ぼうとしたところで、「自分と共にあるものでなければいけなかった」と思い出した、と。ですから考えを戻したのですが、他に何も浮かんでこず、再度考え直す直前に、その言葉――「静けさ」――が浮かんだということです。植物は彼女に静寂をもたらすのですね。植物が静寂を果たしてもたらすのかなど、このことについて私が皆さんと議論する余地はもうありませんよね。 そうなのです。「これだ」と思える言葉を見つけたとき、体が「それで正しい」ということを知っているからです。
はい、ジークフリード――

(参加者)

「言葉ではなく、ジェスチャーが浮かび上がってきた」とのことです。

(参加者による実演)

 すばらしいですね。「ハンドル」のなかに探すものは、言葉である必要はありません。象徴された何かであればいいわけです。「静けさ」のような言葉でもいいですし、いま彼がやったようなジェスチャーでもかまいません。皆さん、何が行われたか聞きとれましたか? 彼は、今朝、日の出のなか、泳ぎにでかけたそうです。勇ましいですね。そこで感じたことは、「わあ!」です。このジェスチャーのあと、言葉が浮かんできました。「つながっている」「生きている」といった言葉が。でも、初めに浮かんだのは、ジェスチャーだったのです。

 皆さんはフォーカシングをするとき、イメージや言葉にかぎらず、ときにはジェスチャーを思い浮かべるでしょう。最近、数人の運動療法家にフォーカシングを教えたとき、なかにはイメージの類をまったく得られなかった人がいました。どのようにアドバイスしたらいいかわからずにいたのですが、それは、「どうぞ言葉は忘れて! 体験したことにぴったりくるジェスチャーを見つけてください」と言うまでのことでした。そのとたん、彼らは運動感覚を発揮して、「こんな感じ」とか「こんな感じ」とかジェスチャーを行うことで、完璧に理解できたのです! 身体を使った方法が、彼らには必要だったわけです。皆さんも、自分にとって何がもっとも適切な方法かいずれわかるでしょう。ただし、前もって憶測しないようにして、体が何を語りかけてくるかを待って見きわめてください。イメージかもしれませんし、言葉やジェスチャーかもしれません。

(参加者)

 心ではわからないことを、どのように体がわかるのかという、別の良い例を出してくださいました。彼女が選んだのは海です。初めに予想していた言葉は「広大さ」といったものでしたが、実際に得たのは「窮屈さ」だったそうです。彼女が経験する海は、今や、どんな理由であれ、窮屈さを内包しているものなのです。皆さんも、浮かんだものがもたらすものは、知恵であり真実であるから追いやることなどできないと、既にお気づきでしょう。浮かんできたもののかたわらに座り、軽いあいさつのような感覚で、「ふうん、いいんじゃない、私が海について考えるときには、窮屈さがそこにあるのね。その窮屈さはどこからくるのかしら? 海を考えるとき、何がそんなに窮屈なのかしら」と語りかけたい気分になるかもしれません。もし皆さんがそのようにして、その言葉などと共にありのままに過ごせたら、今度は向こうから話しかけてくるようになるでしょう。次のステップというわけです。いいでしょうか。そこに進む前に、まだ話したい方はいらっしゃいますか? もしくは単に、まだぴったりの言葉を見つけていないという方は? はい、あなた、どうぞ。

(参加者)

 彼女が思い浮かべたのは日の出ですが、言葉がまだ見つかっていないということです。ジェスチャーのほうが適切なのかもしれませんね。私が気を揉んでもあなたの役に立つわけではありませんから、そんなことはしません。ただ、今朝体のなかに感じた日の出を、うまく表すジェスチャーがあるかどうか感じ、見極めることを、ご自身でゆっくり行ってみてください。

(参加者)

 彼がジェスチャーをしたとき、こんな感じでした。「そうか、なるほど」。いいでしょう、すばらしいですね。他にどなたか、次に進む前にお話しされたい方はいらっしゃいますか? はい――

(参加者)

 すてきですね。皆さん聞こえましたか? 彼女にとって特別なものは、夜寝る前にときどき見る、子供向けの本の挿絵だそうです。それを見たとき、まるで自分が赤ん坊のようにくるまれ、それらの挿絵に包まれていると感じるのが、彼女の体のセンスだそうです。

(18) まとめ

 皆さんが今まで行ってきたことをここでまとめてみたいと思います。対象を選び、フェルトセンスを受け入れ、言葉やジェスチャーによるハンドルを見つけて共鳴させました。間違っていませんね? ハンドルを共鳴させたということは、つまり、ハンドルを自分自身に向かって伝え返させたということです。そうすると体の中に何か違いが生まれたかどうか、気づきましたか。変化があるかどうか、に。

(19)クリアリング ア スペース

 次に、フォーカシングの最初のステップに移っていただきたいと思います。なぜならばそのステップは、うまくいけば、皆さんがこのワークショップから持ち帰ってそれぞれのお仕事に役立てていただけるものだからです。この初めのステップは、する・しないを選んでもらえる任意的なものあり、常に行わねばならないものではありません。これはいわば、皆さんが現在かかえ持っている荷物の在庫リストを点検するような方法です。その荷物とは、あなた方自身と、完璧に自由だとか完璧に幸せだとか感じる気持ちとの狭間にあるものです。まずこのことについて、少し詳しくお話ししましょう。

 このリストは、自分の人生において何が正しくないかをあらわすものではありません。なぜなら、人生において正しくないものと、今現在かかえ持っているものとは、必ずしも一致しないからです。なかには、心では「そんなバカな。こんなもの、まったく重要じゃないよ。心配などしているはずがない」と思っていても、体を省みれば確かにそこに存在するものがあると気づき、驚かされるかもしれません。逆に、人生のリストに載っているものでも、予想と違って体では見つけられないものもあるでしょう。

 あなたは、本当に新鮮にただ体の中に身をゆだねるようにしていきます。これはストレスを減らすことになります。なぜならばしばしば、様々な原因によるストレスが大きくひとくくりにされてしまっているせいで、その軽減はとても難しくなっているからです。ときには、瞑想しようとしても、ストレスの内容から気を逸らすのが難しいことさえあります。瞑想の直前にこのステップ――クリアリング ア スペース――を行うと、役に立つでしょう。このステップは、窮屈さの原因は何か、ストレスのもととなっているのは何かを明らかにするための方法なのです。言ってみれば、それぞれのものをひとつずつ受けとめようとすることで、それらを体内から取り除くことになり、いわば、感じ取られた違いがあるかどうかについて気づいていけるようになります。

 次に、他にも取り出せるような問題や、体の不具合があるかどうか見ていただき、それらを“外に”置いてもらいます。次に、それらを外に置くと、自分の“bodymind”(心身)の中が軽くなったかどうか気づいてもらうようにします。このクリアリング ア スペースやフォーカシングは、パートナーと1対1で行うのが最適です。一人でもできることですが、他の人といっしょにやったほうが良いでしょう。今から一通りお教えいたします。少し早く進むと感じる方も、かなりゆっくりだと感じる方もいらっしゃるでしょうが、どうぞ我慢して付き合ってください。皆さんに“クリアリング ア スペース”を味わっていただきたく行うことですから。

(20)クリアリング ア スペース:練習

 まずは、膝の上の物を下に降ろすところから始めましょう。目を閉じて深呼吸をし、静けさを感じ取るようにしましょう。体の中心にそっと意識を集中させ、そのときに内側でどのように感じているか気づいてください。そこにあるのが何であれ、親しみを覚えられるものかどうか感じてみてください。(間)

 皆さんが平和で充足し、心から満足できる気持ちになったときのことを、しばし思い出してください。そんなときはありましたか。かなり昔のことかもしれませんし、一瞬の出来事だったかもしれません。もしも、そんな時間の記憶がまったくないようでしたら、平和で充足したり心から満たされたりするのはどんな感じなのか、想像してみてもいいでしょう。自分の感性の全てをつかい、どんな香りがし、どんな音が聞こえ、何が見えたか全て思い出し、それを体験してください。その瞬間、自分が自分でいられることをどれだけ素晴らしく感じているかにどうぞ気づいてください。完全に体験できるまで充分時間をとってください。平和な場所に辿りつくところから始めて、満足の感情を得るまでです。それから自分自身に、「今、満足という感情を味わうことの邪魔になっているものはないか? 今、私が人生でかかえ持っているもので、自由や幸福を感じることの妨げとなっているものはないだろうか? 余計な気を回さねばならないものは?」と問いかけるのです。

 もちろん、一度に取り上げるのはひとつだけです。もし自分が完璧で申し分ないと感じるのでしたら――どのみち、この素晴らしい場所にいるわけですしね――、問題を見つけようとしないで、どうぞそのすてきな場所に居続けてください。何か問題があると感じた方や、何かに圧迫されていると感じた方には、それらに気づき、それらを感じ取っていただきたいと思います。(間)

 ひとつ目が体のなかにあるのは、どのような感じですか? 深くのぞき込まずに、ただ気づくだけにとどめ、それにどんな性質がありそうかを考えてください。重さとか暗さとかネバつきとかいった性質を……。では次に、それの周りに包みを作ってください。それを何かで包み込み、適当な距離を置いて体の外に出して置くイメージを抱いてもらいたいのです。息と共に、外に吐き出してください。外に置くときに、気持ちの良い大きな呼吸をひとつ、吐くつもりで。(間)

 次に、それが体のなかにないとどのように感じるか、気づいてみてください。自分が少し軽くなったように感じませんか? それから、内側に戻って、「それがなければ、自分は完璧に元気で自由で平和だろうか?」と問うてください。何か浮かんでこないかどうか、様子をみてみましょう。(間)

 もしまだ何かあるようなら、それの性質を見つけてください。眠気を感じ出したり気が抜けたりするようだったら、それでもいいですよ。ただ、「自分と平和な感情との間にあるもののリストを作っている最中だ」と思い出し、ご自身に言い聞かせるようにしてください。ふたつ目のものがどういった性質なのか、また、体のなかのどこにあるのかを探り出せるでしょうか。(間)

 それから、まずはそれを包み込み、吐き出し、自分から適切な距離をとって離して置いてください。内側に戻り、それら二つのもの抜きだと、自分が少しはっきりしたり軽くなったりしたかどうか考えましょう。それらのもの抜きの自分は、どういう感じですか?

 では次に、皆さんが内側に持っている、背景にあるセンスを感じていただきたいと思います。たくさん持ち歩きすぎているために、その存在にすら、既に気づけていないものかもしれません。追い詰められている、忙しい、悲しい、イライラするといった感情を、おそらく常に感じているのではないでしょうか。プレッシャーに感じるような、背景にあるセンスがあるかどうか、感じてみてください。今日皆さんが抱いているもの、背景にあると感じられるもの、何でもかまいません。その周りに包みを作って、同じように外に置いてください。息を吐き出して……内側に戻ってきたとき、以前と違いがあることに気づきますか? いまだに違和感や難点があるように感じる方は、それを名付けられるかどうか考えてみてください。「あ、これはこういう性質があるな」――「窮屈さ」「重さ」「恐ろしさ」などといったように。もしくは、単に体の感覚かもしれません。その後、それらを包んで外側に置いてこられるかどうか、どうぞ試してください。

 また、今、私たちはこんなすてきな場所にいるのですから、前向きな気持ちや喜びについても覚えておきたいと思います。そういったものがないかどうか、自分の内側を探ってみてください。(間)

 もしあれば、それらを同じように外に置きましょう。

 さて、こういった事柄や背景にあるセンスといった問題がすべて解決し、これ以上自分が悩まなくてすむと想像してみてください。普段、もしくは今日かかえ持っている問題から完全に解き放たれているとして、30秒間自由を感じてください。問題のない自分がどのようなものか、感じてみるのです。そしてこれこそが、何かのことで悩むことがあったとしても、決してその悩みが自分自身そのものではないと気付けるスペース(空間)なのです。私たちは、悩みよりも遥かに大きい存在なのですから。(間)

 では、ゆっくり、そっと、ご自分のペースで、この部屋に意識を戻してください。

 準備ができましたら、いくつかお聞きしたいことがあります。皆さんのなかで、自分のかかえ持っているものを見つけて置いてこられた方はどれくらいいらっしゃいますか? (手が挙がる) それらがないとすると、自分のなかが少し軽くなったことに気付かれましたか? この練習は、眠りに就くときや黙想するときにも大変効果的なものです。また、より簡潔なやり方で、次の患者さんなどに会うあいだに行うのも良いでしょう。ただ一日の仕事をこなしていくのではなく、自分がかかえ持っているものが何なのかについて気付くことができます。私の同僚で、こんなイメージを抱いている者がいます。我々は皆、朝になるとナップザックを背負うのだ、と。何か起こったとき――コーヒーをこぼしたり、仕事に行く途中で渋滞に巻き込まれたり、仕事を始めようとしたらメールが600通も来ていたり、などなど――、それらの出来事は、まるで大きな岩をそのナップザックに入れるようなものです。午後2時にはくたくたになっていても、不思議はありません。

 クリアリング ア スペースをするとき、自分が何をかかえているかに気付き、それを降ろすのに、しばし時間がかかります。岩をひとつひとつ取り上げ、降ろすのですから。さて、今まで私たちは、自分自身の問題に対して何も“働きかけ”をしていません。ただ単に、どのように自分がそれをかかえ持っているのか、ちょっとアレンジを加えだけです。それなのに不思議と、これは私たちを軽くしてくれるのです。どなたか、良い体験をされた方からお話を聞いてみましょう。それから、うまくできなかった方からも聞きたいですね。どなたか、良い体験をされた方は? ストレスのもとを外に置けた方は? はい――

(参加者が経験を語る)

 すばらしい。いいでしょう。彼女ははじめ、恐怖を感じていましたが、それは一般的な恐怖ではありませんでした。その恐怖に意識を集中させると、喉がしめつけられる苦しさだと気付きました。私たちが体で感じることには、しばしば意味があります。彼女の場合も、喉の荒れからくる苦しさではなく、おそらく恐怖からくる緊張を喉に感じていたのでしょう。それに気付いたとき、その緊張にどいてくれるか問いかけることができ、すっかり和らげることができました。このように、生活にあるものと関係のある体の感覚に目を向けるだけで、それらの感覚を和らげることもできるのです。その感覚に直接働きかけることをしないままで彼女は、その恐怖に対し、一時停止をさせ、そして適度な距離を持てるようになったのでした。

(21)トラブルシューティング(トラブルへの対処)

 この方法は単純ですが、さほど簡単ではありません。クリアリング ア スペースを行う際に何が起こったか、少し話していただきたいと思います。性質に名前を付けたけれど、外に置けなかった方もいらっしゃるでしょう。そこにある、とわかっていて、「自分のなかにはこんな神経質な場所がある」ともわかっている。そこで、「よし、包んで、置いて……」と唱えるのですが、まだ動かずにそこにあるまま、といったように。

 この場合はどうすべきでしょうか? そうですね、そういったときにはその神経質さに、もう少し語らせてあげるべきかもしれません。たとえば、「まあ、いいわよ」と声をかけ、思いやりをもって、優しくそっと言うのです。「ここには神経質さがあるのね。私はそれと仲良くして、今後どうするつもりか、聞きたいわ」と。少し語らせるようにすれば、しばしそれは体内から出たがっていると気付くものです。もしくは、「絶対に動かないよ。君はぼくと一緒にやっていこうとしたこと、ないじゃないか。もしぼくをいったん脇にどけたら、二度と拾い上げないつもりだろ」と言ってくるかもしれません。ですから時には、交渉して、「じゃあ、今あなたをいったん降ろしても、今日の夕食の前とかに数分の時間をとると約束したら、空間をあけてくれる?」と聞くこともあるでしょう。そうすればたいていは、「うん」という答えが返ってくるはずです。誠実に対処し、あとで戻ってきてそれと話し合えば、なおさらでしょう。私たちは時には、自分のなかのスペースと取引する必要もあるのです。

 他の方法としては、よりぴったりとしたイメージを見出すことです。周りを包むものが、自分にとって、またはその特定の問題にとって、適切ではないのかもしれません。他の包みが必要なのではないでしょうか。たとえば、風船のなかに入れて浮かび上がらせるとか、ごみ収集車のなかに入れてしまうとか。ただの包みよりもうまくいったイメージを見つけた方は、いらっしゃいますか?

(女性参加者による発言)

 まあ、すてきですね。彼女は雲のようなものをイメージし、それと共に吹き飛ばしたということです。
はい――

(他の女性による発言) 

 それもいいですね。安全な場所に置いて、鍵をかけてしまったそうです。あとで戻ってこられるとわかるように。私の患者で、このすばらしいイメージをいつも用いている人がいます。その患者は、自分が宿屋の主人であると想像します。それから、ひとつひとつの問題を宿の二階に持っていき、鍵をかけた部屋にしまい、自分はロッキングチェアに腰掛けるのだそうです。彼女の問題はすべて、ひとつひとつ別々の部屋に分けてしまわれています。自分の問題のなかのひとつと向き合う準備ができたら、ドアをノックし、鍵を開けてそれを置き、取り組みはじめるのです。彼女は、自分の問題が全て閉じ込められていることで、安心できるのだそうです。あなたが覚える安心感と同じようなものですね。皆さん方は遺憾なく想像力を発揮できますね。

 他に起こりうることとして、たしかに外に置いた、そこまではいいのですが、それがまた中に飛び込んで戻ってきてしまったということも考えられます。どなたか、そういった経験がありますか? いったん降ろしたのに、また中に戻ってきてしまったという方? そうですね……そういうときは、それをもっと遠くに置いたらよいと思います。自分の隣くらいだと、近すぎます。町の遠くに置く、ですとか。もしかしたらそれでも近すぎるかもしれませんね。私はしばしば、水域の反対側に置くことが有効と感じます。または、本当に重いものでしたら、親しい友達が手を広げているところを想像します。私はそれを友達の手の上に置いて、引き返し、友達にしばらく運んでもらうことで、いくらか安心できるのです。ですから皆さんも、スペース(空間)を得るために、どうぞ想像力を働かせてください。

 リストを作りクリアリング ア スペースをするという、この単純な最初のステップに関して行われた研究について、もう少しお話ししましょう。ドラリー・グリンドラー・カトナー(Doralee Grindler Katonah)によってなされた研究です。12人の癌患者がこの方法を教えられ、ひとりひとり、週に1回・40分間を10週間にわたって実践しました。その前後についての比較研究を行ったところ、この経験のあと、患者はより良い体のイメージを抱くようになり、落ち込むことが少なくなったことが判明しました。では、なぜこれがより良い体のイメージを与えるのでしょう? 皆さんは、充足感のある平和な場所へ行ったのを覚えていますか? 病気になると、体に裏切られたような気がして、体をいとしいと感じる感情をなくし、かわりに体に対し戦いを挑むようになってしまいがちです。この方法を始めることは、体が気持ちよく感じるとはどういう感じかを思い出すことなのです。次に、どんな妨げがそこにあるか気付き、外に置くことができるのです。患者は癌に目を向け、常にそれに取り巻かれていなければならないものではないと見なせるようになります。もしくは治療に対するストレスに目を向け、それを外に置くこともできるのです。これらができるようになると、目を見張るほどの解放感がもたらされます。ですからこの、フォーカシングの最初のステップは、患者の気持ちをそれほど落ち込まないようにさせるためにも役立つわけです。

 セッションの最初に、このクリアリング ア スペースを行うのは、このステップのすばらしい使い方でしょう。私は、いつもいろいろなことを話す患者には、彼らの話が始まる前に、「たぶん今日は、自分の内面を見て、今日いちばん注目したいものは何なのか考えられると思いますよ。まず、話したいことは何か、全部並べてみてください」と話しかけるようにします。相手が、5分ほど考えてから、「そうですね、兄についてのこと全部と、仕事についてのこと全部です」と答えたとしましょう。すべて並べ終えたあとで、私が「あなたにとって、どれがもっとも急を要すると感じられる問題で、どれが本当に注目しなければいけない問題か、おわかりでしょうか?」とたずねます。この方法なら、患者は選ぶのに自分の“脳”を使わずにすみます。セッションの最後の10分になるまで話をして、それから本当に話をしたいことが別にあると気付くといったような、無駄な時間を使ってしまうこともないのです。全てを並べることで、「本当に話したいことは「あれ」です、息子についてです」とあらかじめ気付けるのです。

 このステップを使うことで診療方法が変わったという産婦人科医もいます。以前は、患者が医者を予約して会うときにそうするように、話すべきことについての非常に長いリストを作って患者は医者を訪れていました。このなかで医師の方は何人いますか? その場合ですと、皆さんは患者のリストからもっとも重要だと思うものを選ぶでしょうし、次の患者が迫っていてこの患者は見きれないと医者に気付かれるまで、患者のほうはリストの最初の2項目について話すだけで終わってしまう可能性がありました。そのかわりに、「今日は、あなたの全ての問題について話し合う時間は、間違いなくないですね。少しだけ時間を使って自分の内側を感じ取り、それらの問題のなかでもっとも重要で向き合うべきと思われるものを2つほど、どうぞ考えてください」と言えば、何とすばらしいことでしょうか。それは患者を元気づけたことにもなるのです。表層的な話に終始してしまい、時間が過ぎ去るギリギリになって初めて患者の最大の問題を聞いたなどという事態を避け、患者がもっとも話したい大切なことは何かを知ることができるのですから。

 このなかに看護士の方はどのくらいいらっしゃいますか? 医療関係者の方は? このステップは、処置のときに行っても役に立ちます。患者が恐怖を感じているときに、「怖がらないで」とか「みんな怖がるものよ」とか――どちらも恐怖の軽減にはまったく役立ちません――言うかわりに、「そこにある恐怖を、しばらく一緒に感じましょう。そこにある何がそんなに怖いのか、私に教えてくれますか。もしくは、恐怖を覚えているものが体のなかのどこにありそうか、感じるだけでもいいですよ」と言うほうが効果的でしょう。そしてそこから、患者は自分にぴったりしたことをあなたに伝えはじめられるのです。

 誰かといっしょに静かに座り、患者が自分自身に触れようとすることへの手助けをし、そこに既にあるのは何かを見つめ、それに語らせてあげること、これは親近感と親密感を作り出します。皆さんは、患者が何を経験するかについての、思いやりある証人なのです。「ご自分の内側に行って、注射(もしくは処置や、その他なんでも)をしても良いときだとあなたが感じたら、どうぞ伝えてくださいね」と言うのもいいでしょう。なぜならば、患者が準備できたと感じるのは患者自身であり、また、処置について単に自分に起こっていることではなく、自分もそれに参加していることだと患者がとらえられるようになるからです。

 これらは、このステップの使い方のわずかな例です。他の様々なアイデアについては、私の論文や、『フォリオ(Folio)』誌1999年秋号の「フォーカシングと医学(Focusing and Medicine)」特集における、数々の素晴らしい論文をどうぞ参考になさってください。

 クリアリング ア スペースで私たちが行ってきたことを整理しましょう。以下のようなステップでした。リラックスし、平和なときを思い出し、平和と感じる感情と自分とのあいだに何があるかを問います。それから、ひとつひとつの問題を脇にどけていきます。慢性的な不安感や、悲しみ、焦りなどの“背景にある”感情も含めてです。今日、あなたの背景にある感情が何だったか、教えてくださる方はいらっしゃいませんか?

(参加者)

 緊張ですか? 緊張。常に少し緊張している。

(参加者)

 無力感。

(参加者)

 疲れ。

 追い詰められる。私もこれはわかりますね。これらを降ろすこと――解放すること――で気持ちがよくなります。これらはいわば壁紙のように全面的に行き渡っているので、気付くのもままならないものです。でもいったん取り除くと、「わあ! 追い詰められていないと、何かが違って感じられる」と思えるものです。この方法がストレス軽減の手段となるのは、ひとつにはそういった理由があるからですね。私たちの多くがそうなりがちですが、ストレスのお定まりの(凝り固まった)記念碑になることはやめましょう。そして、ストレスをかかえ持たないと自分がどう感じるか、体で感じることができます。

  スペースがすっきりせずに、「まだ何かあるみたいだ」と言う人がいるのなら、それを取り除くためのイメージを探す手伝いをしてあげられます。ほうきのイメージが良い場合も多いですよ。スペース(空間)を掃いたり、窓を開けるイメージを浮かべたりできますよね。 「すっきりとしたスペース(空間)を得るためには何が役立ちますか?」と聞いてもいいでしょう。この方法なら、相手と協力して取り組めます。聞いた後、相手にわずかな間を与えましょう。何も「する」必要がなく、ただその人がその人自身で「いる」間を、です。多くの人にとって、これは瞑想の入り口となりえます。瞑想そのものが怖かったとしても、あなたと呼吸を合わせ、一分間の「自分でいる場」を味わうことは、リラックスしたりストレスを減らしたりする助けの、すてきな最初の一歩となるでしょう。

 よろしいでしょうか、では次に、フォーカシングの全体について、少し経験していただきたいと思います。クリアリング ア スペースをしたときに自分がいた場所に戻ってください。――何人の方が、物事を降ろせましたか? いいでしょう、完璧にすばらしい場所にいて何の問題も見つけなかった方には、今から行うことのために、人生において注目してもらいたがっている悩みや問題を見つけてほしいと思います。皆さんはここでは学んでいるだけなのですから、50年間もかかえ続けている悩みといったような、一番重いものを選ぶ必要はありません。それですと複雑になりすぎます。もっと入り組んでない問題をどうぞ選んでください。問題自体に選ばせるようにすると、さらにいいでしょう。

 深呼吸を数度つき、自分の内側にはいっていってもらいたいと思います。これは皆さんご自身のための時間です。味わい深い方法で自分自身と共に過ごしたり、「もっとこうであってほしい」と感じ、前進させたいと考える対象と向かい合ったりするための時間なのです。それでは、クリアリング ア スペースを行った場所に戻り、はじめに、そこがきれいにかたづけられているままかどうか確認してください。もしそうでなかったら、そこにあるものを取り上げ、極力そっとどけることができるか試しましょう。そうして、かたづけられた空間を手に入れます。次に、さきほど降ろした荷物のなかから、これから数分間取り組むための、今自分が注目しているものがあるかどうか探してください。自分の体に、この問題に取り組んでいいかどうかたずねましょう。なぜならば、それが適切な場所と時なのかは、体が知っているからです。「これに取り組んでも大丈夫?」と確かめ、返事があるかどうか様子を見ましょう。
取り組むべきものがひとつ見つかった方は、そうとわかるように挙手をお願いします。あれこれと組み込むのでなく、ひとつの問題に焦点付けることが大切です。問題が何も見つからない方は、「私の人生で、私からの愛情深い注意を必要としているものは何かしら? 今、私に注目してもらいたがっているものは?」と問うてみましょう。それから、答えが浮かび上がってくるのを待ってください。何か問題が見つかった方は、それに深く入りこんでしまわず、ただそこにあるがままにしておきましょう。それが、どんな体のセンスを作るか、気付いていただきたいと思います。 問題や悩みに苦しんだり対処しようとしたりするとき、どのように感じますか? その体のセンスはどのようなものかわかるかどうか、確かめてください。そこには、何か曖昧なものがありますよね? 水晶のように透明ではないですが、確かに体内にあると感じられるはずです。もしそれがうまくいかなかったら、「これは完璧に解決されて、まったく問題ないし、もう二度と考える必要もない」と自分自身に言い聞かせてみましょう。それから、「いやいや、そんなことないよ」と言いながら自分の中に飛び込んでくるものが何かないかについて、どうぞ気付いてみてください。

 どちらにしろ、それと一緒にいるとどのような体のセンスを得られるか、感じ取ってください。このことに対して、親しみ深く、優しく、まっすぐ向き合ってみてください。そのまま自分と共にいさせてもいいのか、そして、その悩みや心配事や問題をうまく表す言葉、イメージ、フレーズなどがあるかを考えてください。もしそれらの言葉やイメージがうまく合わなかったら、こだわらずにより良いものを探してください。正しい「ハンドル」、つまりぴったりと合う言葉やイメージを手に入れたとき、それが自分に何かを語りかけてくるかどうか判断しましょう。それに向かって質問をするのが有用な場合もありますので、私がいくつか質問をいたします。もし、皆さんにとって適切でない質問があれば、どうぞ自由に聞き流してください。

 最初の質問です。「これの最悪な点は何だろうか? 何がこれをこんなに大変にしているのか?」そして、それが自分に語りかけてくるのを待ちましょう。もし何か得られたら、息とともに吐き出してください。次に、「これは何を必要としているのか? この状況が必要としているものは何だろうか? 何が起こったら良いのか?」と聞いてもいいでしょう。もし何か得たら、どうぞ吐き出してください。三つ目の質問は、「起こってほしいことが起こりやすいようにするために、私にできることはあるのか? 私が進めるステップはあるのか?」です。これは皆さんの問題にとって適切ではないかもしれませんが、自分が進めるステップがここにあるか、ちょっと考えてみてください。もっと愛情深くなれるか、など……そしてもう一度、得たものを息とともに吐きましょう。まだ楽にならず、安心感が訪れないようならば、この悩みや問題に対する適切な質問は何か考え、自分自身に問いかけてください。「いったい何が適切な質問なのだろうか?」とたずね、問いかけるのです。

 では、この練習の締めくくりとして、皆さんが必要だと感じるものを全て行いましょう。おそらく、今まで行ってきたステップのまとめが必要かもしれませんね。何が皆さんのハンドルでしたか? どんな言葉やイメージでしたか? 何か変化を感じますか――内側にほんの少しでも、新しい情報やそれへの新しい対応の仕方を感じますか? 今まで取り組んでこようとした自分自身に、しばし感謝の念を捧げましょう。なぜなら、本日このステップの全てを踏まなかったとしても、優しく丁寧に問題に目を向けたことで、充分な癒しになりうるからです。準備が整いましたら、ゆっくり、そっと、自分のペースで、部屋に戻ってきてください。先ほど申し上げたように、フォーカシングの最良の方法は一対一で、お互いが耳を傾け合うように行うことです。ですから今日は、その雰囲気を味わっていただいたにすぎません。もし今日うまくいかなかった方がいたとしても、フォーカシング自体を放り投げるようなことはなさらず、もう一度試してくださればと思います。フォーカシングを行う方法は、他にもたくさんあります。それでは、何か質問がありましたら、お願いします。

はい

(参加者)

 そうですね。もしあなたが一対一で行うとしたら、どちらかといえば相手のほうがあなたに対してたくさん話すことになるかもしれません。相手の方は全てを話すかもしれませんし、得たイメージを断片的に話すだけかもしれませんが。もし耳を傾けながらフォーカシングを行えたら、それがもっともすばらしい時です。耳を傾けながら、あるいはカウンセリングをしながらそれを行える、いわばまさにパートナーとして協力し合える瞬間です。フォーカシング コミュニティのなかで、すばらしい動きが新しく出てきています。フォーカシング コミュニティでは、人々はフォーカシングのパートナーを見つけますが、そのパートナーは人生をともにする相手である必要はありません。なぜなら人生の伴侶にとっては、あなたが考え感じていること全てを聞くのは大変だからです。フォーカシングのパートナーは互いに時間を等しく分け合います。1時間あったら、それぞれ30分ずつが持ち時間となります。自分の時間では、自らフォーカシングをしてもいいですし、パートナーに自分のフォーカシングをガイドしてもらってもかまいません。それから、何が浮かび上がってきたか話し合い、自分の話を聞いてもらい、パートナーからの反応を得るのです。アドバイスは禁止です。これはすばらしいですよ。私にもフォーカシングのパートナーがいますが、その人と一緒に行う優しく丁寧な方法でのフォーカシングを私は欠かしません。地元にいるかぎりですが。またこれは、他人と分かち合える方法でもあるのです。皆さん、これからほんのわずかな間だけ、自分に何が起こったかについて他人と分かち合ってみてはいかがでしょう。そうすれば、その経験を自分の心身にだけとどめておくことにはならないわけです。おそらく、最後に話した人と数分間つながりを持てるかもしれませんね。それから、質問への回答を再開したいと思います。

はい――

(参加者):「フォーカシングと直観は同じものでしょうか?」

 直観という言葉が、「「どうやって」知ったかを知る」という意味ではなく「何かを知る」という意味で使われるかぎりにおいて、フォーカシングは直観の一種です。フォーカシングとは対象についてもっと深く知りたいと探ることですが、ステップを踏むときに直観が用いられます。「今この車を買うべきじゃないという直感が働いた」と言って、自分の内側に行けば、そのことについてもっと語りかけてくるものがあるでしょう。その意味では、それが直観です。しかし同時に、態度としての側面もあるでしょう。フォーカシングの態度のことです。つまり、何を見つけても、それに対して非常に優しく親しみを持って接するという態度です。扱いがたい感情に対処するときに頻繁に用いられる方法には二つあり、人々はその二つのなかのどちらかを使いがちです。ひとつは、その感情を膝の上に置き、じっと監視しつづけることですが、結果的に私たちは圧倒されたように感じてしまいます。これはひどい経験で、行った人は「もう二度とあんなことはやるまい」と言いますね。もうひとつの方法は、「私には対処すべき問題があることを、そして、いずれそこに辿りつくことができることを知っている。そう、いずれね」と自分自身に言い聞かせることです。でも実際には、問題を保管庫に閉じ込め、二度と対処しようとはしないものです。

 これらはありがちな両極端な二つの方法ですね。フォーカシングはそのフォーカシング的な態度や、距離を持つことを許すという感覚によって、困難な物事を少しでも自分に近づけるのに有効だと思います。問題を抱えている人が、それによって圧倒されたように感じているのなら、なおさらでしょう。また、物事をどけたせいでひどい目にあうことはないと分かっているため、安全に対処できる優しい方法でもあります。その問題と向き合って話し合えるようにもなるでしょう。フォーカシングには直観とともに働く一面、また、正しい距離をとる一面もありますし、自分の問題や悩みとのダンスの距離を適切にとることができるので、それと話し合うことが可能になるのです。たとえば、最も恥ずかしいと感じる物事でさえ、それに親しみのこもった場所を作りだし、あなたの腕の中に抱いてあげ、その恥が自分に語りかけてくるようにすることもできるのです。自分が怖く感じてしまうくらい近くには、置かないようにしてください。適切な位置で話しかけさせるようにすれば、その問題は変化してくるでしょう。そこには、次へのステップがあるのです。皆さんが人生で経験するほとんど全てのことには、次の展開への目に見えないステップがあるはずです。フォーカシングは、私たちが生まれながらに持つ権利の一部である、この自然なプロセスと会話をするための方法なのです。

(22)参加者からの質問 続き

はい――

(参加者)

 彼女は、フォーカシングによって自分の感情に心から正直になれるとのことです。

はい――

(参加者)

 いいでしょう、リーが指摘したとおり、この方法はいつもそう簡単にいくとはかぎりません。そしてそれこそが、フォーカシングのクラスで本当に学ぶべきことなのです。クラスでは、問題が浮かび上がったときにどう働きかけるかについて扱っています。そしてしばしば、浮かんでくる問題のなかには、内なる批評家が存在しています。自分自身に対して優しく、親しみをこめることは難しいことです。自分の肩に立っている誰かが、「まあね、でも、そんなふうに感じるべきじゃないね」と語りかけているような感じです。皆さんは、内なる批評家とどのように付き合っていますか? これについて長い時間を割くことはできませんが、内なる批評家からパワーを得られるように付き合う上手な方法があることを、知ってください。

 フォーカシングはつながるものです。皆さんが今までに行ってきたこと全てと共に有効に働く方法である点も、フォーカシングの喜ばしいところです。「ああ、これがいい。他の方法は何もいらない」などと考える必要はありません。むしろ、今まで行ってきたことが何であれ、それらに直接、フォーカシングを取り入れてください。たとえば、もし観念運動シグナル法(idio-motor signaling)や精神分析療法を行ってきたのであれば、それらも続けたうえで、フォーカシングをそれらに統合させていく、といったように、です。

 はい――

 ローズマリーからの質問です。セラピーではどのようにフォーカシングを行うのか知りたい、とのことです。皆さんのなかで、カウンセラーやセラピストの方はどのくらいいらっしゃいますか? では、これについてお話ししましょう。いろいろな方法があります。私がみているなかで、フォーカシングについて聞いたこともないという患者もいますし、具体的な概念をこれっぽっちも知らないにも関わらず、実際に使っている人もいます。そういった特定の患者には、フォーカシングのことをあえて言わないようにしています。なぜなら、私が「ああ、良い方法があるから教えてあげましょう」などと言えば、そのとたんに私たちの間に障壁が築かれてしまうからです。患者の側は間違って習得してしまうことを恐れるようになるかもしれません。また、彼らは「私に向かって」何かを伝えるために来ているのですから、そもそもそんなものを私から教わりたくもないかもしれません。ある患者に向かって「これがフォーカシングというものだ」と直接的に言ってはいけない理由は、たくさんあります。フォーカシングを実行し、そして上手に織り込んでいきましょう。ではそれは、どのように行えばよいでしょうか?

 ある人が、「うーん、今日は何も話すことがないなあ。何もないと感じるよ」と言うので、私は「ということは、何もない感じがするのですね? どんな種類の何もなさを感じるのか、教えてくれますか? 空白の画面のようなものか、それとも壁のようなものか、もしくは穴のような感じかしら?」とたずねます。相手は、「そう、どちらかというと……そう、自分がここにいたくないような感じだ」と答えます。この時点で私たちは、フォーカシングと名付けてはいませんが、まさにそれを行ったことになるわけです。私は彼に、内面に行かなければ答えられない質問をきき、「どんな種類の何もなさなのか」と問いました。私が「こんな感じ? それとも、こう?」と提案をしたら、彼が「いいや、どれでもないよ。もっとこんな感じだ」と答えるでしょう。「こんな感じ」と彼がわかる唯一の方法は、自分の体のセンスを探ることなのです。

 ほかの臨床の例として、患者が話のなかで、「妻には本当にイライラさせられる。もうおかしくなってしまう、耐えられない」と言ったとしましょう。私が「今もそのイライラを感じますか?」ときけば、おそらく彼は「ああ、まあね。とにかく私が言いたいのは……」と答え、話を続けようとするかもしれません。私は数分毎に、戻ってくるように彼に働きかけるでしょう。なぜなら彼にとっての本当の変化は、私に話を延々としている最中に起こるのではなく、自分自身の体に感じる“イライラ”に触れられたときに起こるからです。そこからステップを見つけ、何が必要か探しだせるでしょう。数分後、怒りの気持ちに戻ってきた彼に、「怒っているとおっしゃっていましたよね。今現在、その怒りを少しでも体験できますか? その怒りがどんなものか、感じられますか?」と私はききます。すると彼は、おそらく3分ほど自分の内側に入り込むでしょう。これはプロセスなのです。私は彼に、答えは彼自身のなかにあることを教えているのです。一回のセッションで、全ての人に自動的に全てのことが起こるわけではありません。でもなかには、フォーカシングと波長がぴったり合って、自然にはいりこめ、目覚しい効果を得られる人もいます。

 今申したのは、ちょっとずるがしこいやり方でした。相手によっては、「読んでいただきたい本があります。これから私たちが取り入れていきたい、すばらしい方法について書いてある本なのですが」ときちんと勧めることもします。そうして相手にフォーカシングの本を読んでもらうことで、始めていく場合もあります。クリアリング ア スペースについて教えたり、フォーカシングのやり方について教えたりもしますし、場合に応じてフォーカシングを時々のセッションで、もしくは毎回のセッションで行ったりもします。フォーカシングはすべてのことに統合しうるものです。フォーカシング自体がセラピーの全てというわけではありません。セラピーはまた関係性でもあり、そこに現前としてある世界ですが、フォーカシングとはセラピーで用いられうる、ひとつの方法なのですから。

他に質問は――はい。

(参加者)

 フェルトセンスを急激に感じることはできるのか、というご質問でした。

(参加者)

 はい、すばらしい質問ですね。いつも、かかえ持っている問題から考えはじめて、そこからフェルトセンスを見つけるという順番である必要はありません。異なった道筋を辿ることも、たくさんあります。とても強烈なフェルトセンスの周りをうろうろしながらも、「不安感を抱いているのだけれど、それが何かつかめない」といったように、何について感じているのかまったくわからないこともあるでしょう。フォーカシングを始める場所として、それもまたすばらしいでしょう。「歯医者からの請求書がメールで送られてくるからだろうか。いや……」と考えます。正しいものを見つけられたときは体がわかるという興味深い事実を、皆さんは知っていますよね。「いいや、歯医者の請求書などでは絶対にない。つまり、私は何かを心配しているが、それは請求書ではないということだ。違う。何か別のものだ。それは――土曜日に結婚式の予定があるのに、雨が降りそうだってことだろうか? いいや、それじゃない。何か、不安のようなもの。――それは……」と、フェルトセンスは教えてくるでしょう。もしそれを感じ続けていれば、一瞬のひらめきというかたちでないにしろ、しばしば何かが伝わってくるはずです。ですから考えた結果、「それは、夫に関することだ、そう、それ」と思いつくでしょう。その後も考え続け、最終的に「ああ、そうだ、車をぶつけてしまったことを夫に言わなきゃいけなかったんだ」と、辿りつくかもしれません。そして、何かを得たときに、体は「そう、それ」と知っています。また、安心もできるでしょう。これから車と夫のことをどうにかすべきだと案じていても、でも、何をすべきかわかっているという点に、安心を覚えることができるのです。その不安が自分に向かって語りかけてきたことでした。

質問は――はい。

(参加者)

 フォーカシングは、意思決定のために使っても良いですね。なぜなら、意思決定というのは是か非かを決めるだけでなく、何から何まで全てを自分で決めなければいけないからです。ですから皆さんは患者に、「あなたは今、選択肢Aを選び、取り組んでいると想像してください。内側でどのように感じるか、くみとってください」と言ってもいいでしょう。充分に熟考させ、それについて話し合うようにしてください。それから、「いいでしょう、では次に、もう一方の選択肢を採用してみましょう。それを行い、その仕事(または何でも)をやります、と言った。どんな感じがご自分にするか、どうぞ感じてください。それに「そう、それ」といった肯定的な気持ちがありそうですか?」と言いましょう。その後は、その経験とハンドルのあいだを行ったり来たりして確かめれば、大概は答えが見つかるものです。

(参加者)

 素晴らしい質問ですね。「“頭でだけ考える”人物を相手にする場合はどうなるか」というものでした。こちらが「内側に行ってください」と勧めても、「は? 何の話だい? いま言ったとおり、私は妻に怒りを感じているんだ。どういう意味だ、内側に行けって?」と答える人もいるでしょう。こんな患者に会ったことのある方はいらっしゃいますか? こういう場合は、もっとずっとさりげなく行う必要がありますね。自分自身のフェルトセンスを持ちだして、こちらから具体的に行ってみせてもいいかもしれません。私の経験ですが、ある日患者が来て、「先週末、恋人にふられてしまったの。でもかえって、本当のところ良かったのよ。先のある付き合いでもなかったし、いずれ別れるんなら早いほうがいいしね」と言いました。私は、「まあ、そんなこと聞いて、私は大型トラックに轢かれたみたいにショックですが。あなたはそんなふうに感じませんか?」とたずねました。少しして彼女はうなずき、さらに少し経ってから経験をさかのぼって語りだしました。彼女の話の最中も、チャンスがあるたびに私は自分のフェルトセンスを用いました。私はしばしば、「ということは、それはこんな感じかしら……」と提案し、相手に選択肢を与えます。「打ちのめされた感じ? 粉々になった感じ? それともイライラする感じかしら?」というように。「どれでもないわ。悲しいような感じなの」と答えが返ってくるかもしれません。私は、患者が自分の意見を否定することを喜ばしく感じます。それは、彼らがフォーカシングを行っているのだと知ることができるからです。提案も時として効果的になりえますし、後に相手から否定されることもあります。いずれにせよ、それは本当に最善のことといえます。

 さて、こういった理知的な(頭でだけ考えようとする)人々に対して、他に何が言えるでしょう? そうですね、ひとつには、はじめから問題とともにフォーカシングを行うのでなく、患者に体のなかのセンスを感じさせるところから始めるのもいいかもしれません。「体の中心に何を感じますか? 自由や幸せを感じるでしょうか? ただ訪れて、そこを見てください」と言いましょう。何か肯定的なことから始めたかったり、それまでに相手が幸せを表現していたりしたら、次に内側に行くようにさせるわけです。「喜びを感じられますか? 現在、安心感を抱いていますか? 体の中に感じられますか?」というように。他の方法としては、違いを感じてもらうよう、たずねるのもいいでしょう。体と向き合いたがらない人でも、違いならば意識できることが多々あります。たとえば「こっちの上の胸のあたりと、下のお腹のあたりだと、何か違いを感じられますか?」とたずねてみる、などです。時として、これによってフォーカシングの概念全体に開かれていく人もいるでしょう。

 体と対話するのが難しい人には、本当に簡単に「足の指先を感じられますか? 膝は? 椅子にくっついているお尻は感じますか?」とたずねるところから始めましょう。とても具体的なところから始め、それから「では、体の中心に意識を移すことはできますか?」ときくのです。「今、お腹はすいていますか? 二時間前にお昼を食べたといった類は、言わないでいいですよ。そんなことをききたいのではないですから。ききたいことは、今あなたはお腹が減っているのか、ということです。自分のお腹が減っているかどうか、そこを訪れて確かめてみてください。もしくは疲れているかどうか、などを」といった、単純な質問をするようにしましょう。これはなかなか偉大な方法です。なぜなら、体の内側を調べてお腹が減っているか、もしくは疲れているかを見つけだすことで、体の内側と親しくなっていけるからです。

(23)まとめ

 最後にまとめとして、フォーカシングを行うことは、いまだ明確ではない何か、現段階で言葉にできるもの以上の何かと共に時間を過ごすことだと申し上げたいと思います。体にもとづいてのプロセスは信用に足るものです。やさしい注意を向けるのなら、それは姿を現し、個々の意味と真実を正確に浮き彫りにしてくれるものなのです。ジェンドリンが言ったように、「体における一歩は、心における千歩に値する」のです。今日、この2時間で、皆さんはフォーカシングの一端を経験されました。通常ですと学ぶのに数日間かかるのですが。皆さんがフォーカシングを追究しつづけ、そしてこれを、ストレスを減らし、問題を解決し、意思決定を行い、精神性を高め、体の中にある意味と知恵とに触れるための、価値ある、心と体をつなぐ方法だと実感してくださることを願っております。
どうもありがとうございました。

Last Modified: 11 February 2005

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