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フォーカシング・パートナーシップの倫理とフェルト・コミュニティ
The Ethics of Focusing Partnerships and Felt Community

マリリン・フランクファート(Marilyn Frankfurt)
トレーナー ニューヨーク(アメリカ)

マリリン・フランクファート, M.A., 医療ソーシャルワーカー、ニューヨークで開業する心理療法家であり、フォーカシング・インスティチュートの計画委員でもある。

 フォーカシング・パートナーシップが成立するのは、二人の人が定期的にお互いにフォーカシングし、リスニングすることに合意したときです。パートナーシップは、パートナーどうしの関係があまり近すぎない場合がもっともうまくいきます。少なくとも週に1回、直接会うか、または電話で、お互いに30分、相手のために時間をさくというのが通常のパートナーシップのモデルです。それぞれの番が終わったら,その回は終了です。話された内容についてコメントすることは一切禁じられています。起こったことすべてについての話し手の感覚に、侵入してしまうことを避けるためです。

心理療法家のためのフォーカシング訓練プログラムで、私は2年にわたって、私の他に9名の生徒を固定メンバーとするグループとフォーカシングしました。私たちは毎週、それぞれ相手を決めてセッションを行ないました。そして、2ヶ月ごとにパートナーを交代しました。この2年が終わる頃には、それぞれが全員とパートナーを組むことができました。

全員とフォーカシングし、またリスニングを行なったことにより、私は他のメンバーに対して、より優しく、批判的でない、そしていたわるようなかかわり方ができるようになりました。以前よりも、メンバーに対して、そしてフォーカシングのプロセスに対してもっと安全な感覚を持てるようになりました。メンバー全員について、心の底から知る必要がありました。このようにお互いに分かり合うなかで、平等な関係が生まれ、互いに相手の気持ちにより触れやすくなりました。私たちはとても大事だと感じられるつながりをつくりだすことができました。そしてそのつながっている、という感じは、お互いについてだけではなく、フォーカシングのテクニックという不変の構造についても感じられたのです。フォーカシングは素晴らしかった。私たちは、自分自身のフェルトセンスに注意を向けるのにフォーカシングのテクニックが信頼できるものだということ、そしてそれはそこから意味が生みだされてくるような方法であること、またそこから達成感と安心を得ることができるのだということを学びました。フォーカシングは私たちにとって「そのことについてのすべて」のシンボルとなったのだと思います。

フォーカシング・パートナーシップという状況そのもの

私たちにとって意味あるものすべては、状況の中で生じます。フォーカシング・パートナーシップそのものも、状況を作り出します。フォーカシング・パートナーシップは、きわめて特殊な、構成された対話であり、パートナーシップにおいてそれぞれの個々の状況は、常にからだで感じられ、確認され、そしてその状況から、からだで感じられた意味が現れてきます。フォーカシング・パートナーシップそのものの状況を体験する時、しだいにパートナーは、お互いについての証人となっていくのではないでしょうか。

ここで「証人」という表現を用いたのは、私たちの注意深い、または純粋なリスニングと、慎重に言葉が選び抜かれたリフレクションによって、確認と、確証が得られるのだ、ということが言いたいからなのです。私は、リスナーが証人の役割を果たせるようになるには、関係性において親密さが徐々に増していく必要があると考えています。このような特別な状況の中で、私たちはお互いをきわめて深いレベルで知ることができるようになるのです。このことについての理解は、私たち自身のフェルトセンス、そして相手のからだで感じられたフェルトセンスが、対話で取り上げることがらをめぐって生じてくるのですが、それらに私たちが気づくことによって、もっと深まるでしょう。私たちは自分自身と、そして相手を「同時に感じる」のです。

倫理的なプレゼンス

証人への変容は、私が倫理的なプレゼンス、と呼ぶものによって促進されます。倫理的なプレゼンスは、フォーカシングの状況そのものにおいて「生きている」のです。この倫理的なプレゼンスによって、私たちは、パートナーシップにおいて、話したり、行動したりするにつれて、相手に対して責任があるのだという意識を持つようになります。このプレゼンスは、親密さという感覚の生き生きとした一部になります。このプレゼンスは、私たちの間で発話や表現とともに行き交い、やがて私たちの体験の一部となり、私たちの社会的アイデンティティを形成するのに役立ちます。

パートナーは、リフレクションを行ったり、役割を交代したり、そしてリフレクションの正確さを確認するためのフィードバックを提供したりすることにより、対話において互いに答えることができるということの持つ大きな意味を理解します。これらは倫理的なプレゼンスにおける基本的な要素です。私は、パートナーとのフォーカシングにおけるプロセス全体を推進するエンジンは、この倫理的なプレゼンスであると考えています。

パートナーシップという状況そのものが、パートナーに倫理的な営みをさせるものであるということになります。パートナーシップは、フォーカシングを俯瞰する証人として機能します(Bakhtin, 1986)。パートナーシップという状況は、フォーカシングにおける「第三者」となり、私たちは自分が、その感じられたプレゼンスに対して行動していることに気づくのです。それは私たちが話す時、私たちの間に存在します。その「何も見落とさない目」は、私たちに、私たちが話す時に、私たち自身の内側での作業の指針となる、またお互いに対する行動の指針となる倫理的なヴィジョンを与えてくれます。

様々な種類の倫理

フォーカシング・パートナーシップにおいて内在する倫理的なプレゼンスは、関係または対話そのものの行為に「おいて」のみ存在します。からだで感じられた関係性についての倫理であるために、それはケアの倫理とよく似てはいますが、フォーカシングするにつれ立ち現れてくるこまやかな豊かさにおいて、より内的に深いものであると言えるでしょう。このフォーカシングの倫理においては、からだで感じられるフェルトセンス、相互の依存性と独立性、全体、相互性、親密さ、へだてのなさ、成長、プロセス、そして人生を前に進める方向性についての詳細が強調されます。この倫理は、コンテクストと新しさを際立たせ、モラルについてのジレンマを解決するための規則よりも、共感に目を向けるものです。これはまた、私たちが自分自身の内側に発見する「これでいいんだ」という感覚を大切にすることを促進するものでもあります。この「これでいいんだ」という感覚は、私たちがある状況にある時に、どの正確な言葉や、ジェスチャーや、イメージがその状況にぴったりかを、私たちに教えてくれるものです。

私はこのからだで感じられた倫理的なヴィジョンについていきたいと思います。なぜなら、これは私が誰かと共にいる時に、お互いのためになるような最も良い方法を、私が探り出す手助けとなるからです。私は、自分が聞いてもらえるということを知っていれば、注意深く相手に耳を傾けることができます。このような自由によって、新しい表現が生まれてくるのです。ジーン・ジェンドリンが観察しているように、パートナーシップのパターンを活性化させるものは、まだ自分自身が口に出してもいないそのことを、相手の口から聞くということから生まれる親密さなのです。

フェルト・コミュニティをイメージする

「フェルト・コミュニティ」というイメージが私に生まれたのは、6日間という長いフォーカシング・リトリートの時でした。私はその時、生まれて初めて、自分自身との、そして他者とのありようが、縮んでいくのではなく、広がっていく人々のグループに、自分が加わることができたと感じました。それは私が感じた、自分自身についてのいちばん良い感覚でした。そこで、もっともっと多くの人々がフォーカシング・パートナーシップに加わって、そして世界中に目に見えるフェルト・コミュニティが形成されていく、という夢が膨らんだのです。

フェルト・コミュニティを「建設」するためには、からだで感じられたフェルトセンスに注意を向け、またフォーカシング・パートナーシップにも注意を向けながら、共に自発的に話す方法、というのを想像しなくてはなりません。John Shotter のジョイント・アクションを加えてみてはどうかと思います。これは、参加する全員の声を含む協同的で、自発的な関係のプロセスです(Shotter, 1993)。この先入観を持たないという方法によって、他の人々は私たちのありようの動きを感じ取ることができます。その動きとは、彼らが、ほんとうに、応答しなければならない、と感じたいと思う動きなのです。フォーカシング指向ジョイント・アクションによって、私たちは、構造化されたフォーカシング・パートナーシップ――私たちの基盤――を守ることから離れ(でも離れすぎることなく)、特別なことがらや状況をめぐっての、もっと自発的な「ああでもないこうでもない」というやりとりへと移行することができるのです。

このようなコミューン的な生活によって、私たち全員が、よりリアルに、そしてより信頼を深めながら共にいる、という体験をすることができるでしょう。お互いの確認と認識にもとづく、この感じられた意味のコミュニティは、私たちにとって安全な場所となるでしょう――ほんとうに心からくつろげる安全な場所に。

(翻訳:土井)

文献:

Bakhtin, M. (1986) Speech Genres and Other Late Essays. University of Texas Press, Austin.

Shotter, J. (1993) Cultural Politics of Everyday Life University of Toronto Press, Toronto.

 

 

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This page was last modified on 26 February 2007

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