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「フォーカシングと間主観性と『治療的間主観性』」

Rev. of Existential Psychology and Psychiatry, Vol.XXVI, 2001: 3-16.からの抜粋
グレッグ・マディソン


 グレッグはカウンセラーのスーパーバイザーであり、ロンドンの公的・私的機関にてセラピストとして勤務している。彼はリージェント大学でフォーカシングと実存セラピーを学生に教えており、臨床心理の博士号取得間近である。

 クライアントと向き合っているとき私は,自分の生活体験を探っているその人とともににいるよう努めている。そのために私は注意を自分の身体に下ろしていく。そこで私は,身体的に感じられるフェルトセンスとともに漂っている。そのフェルトセンスには,相手の今の気持ちや,二人が一緒にいる雰囲気や,自分の今の気分や,セラピーについて理解などなど・・・実際,その状況についての多くの側面が,どれか一つにとらわれることなく一度に感じられる。前もって考えたことや心理学的な理論を押しつけてはならない。この論文は,「間主観性」についての諸理論を私自身の体験に「照合」してみる試みである。私とクライエントの間に起こることがより明確になるようなやり方でそれをしてみたい。かえって曖昧になるような風にはしたくない。

 私は密封された皮膚袋ではないし,その中に入っているものも孤立した生活の永続的な細目ではないことを知っている。からだから切り離された個人的な「私」というものはないこともわかっている。間主観性という概念は,デカルト的な心身二元論への正しい反論である。心身二元論は,私たちの科学や分化や言語を分断し,また,私たちが自分の体験を解釈するやり方までを分断している。間主観性は,「内的」生活と「外的」現実,主観と客観(対象物)という分断を疑問視する。人は一つの対象物ではない。内側にその人の本質を閉じこめたものではない。椅子とは違うのである。もちろん対象物として目立つこともあるが,意識を通して他の対象物とつながっている。私たちは単なる物におとしめられてしまうことなく,意図を持ち,他の物に向かっている。間主観性は,私たちが主観と客観の両方であることを理解する試みである。つまりここでは,「主観は,ある種の交換によって,その人のからだであり世界であり状況なのである。」(メルロ・ポンティ, 1964, p12)

 ユージン・ジェンドリンは,もし「私たちが状況の中で,からだで相互作用しているところから話すことができるようになれば」主観と客観の区別を越えられると主張する(1997,p.15)。相互作用は,つながりの場を示しており,そこから知覚は可能になるのである。相互作用は二つの知覚に分けられない。二人の人の知覚に別れるのではなく,一つの相互作用があるだけである。ジェンドリンは,「・・・」,ある状況の感覚について述べる。そして,その特定の状況の中の次の動きの暗示されている(implying)と書く。その感じには,まだ実現されていない(そしてもしかしたら実現されることのない)行為の暗示が含まれているのである。

 「・・・」は,単なる知覚ではない。もちろん,そこにはたくさんの知覚は含まれていることは確かだが。それは,確かに感じであるが「感じ」は情動を意味することが多い。「・・・」には情動も含まれるが,それ以外のものも含まれている。では何か神秘的でなじみのないものなのあだろうか? いや,私たちはいつもそのようなからだの感じを自分の状況について感じている。あなたは,今もそれを感じている。そうでなければ,自分がいったいどこにいて何をしようとしているのかがわからなくなってしまうはずである。・・・これを表現することばが私たちの言語にないのは奇妙ではないか?「身体運動的」ということばは運動を指すだけだし,「自己受容感覚的」は筋肉について言い方でしかなく,「センス」にはたくさんの使い方がありすぎる。つまり,このまったくおなじみのからだの感じ,私たちの状況の複雑さについてのこの意味感覚についての一般的なことばはないのである。・・・心理療法で今私たちはこれを「フェルトセンス」と称する。(ジェンドリン,1992,p346-7)

 状況はプロセスであり,そしてそれが治療的に役立つ。そこからからだの感じが生まれる。そしてこの感じは常に間主観的なものである。この感じは決して状況から切り離されることはないし,単なる内的なものであることは決してない。このプロセスは混沌でもないし,知覚や概念の渾然一体となったものでもない。この感じは,複雑に織り込まれたものであり,曖昧さを越えたものである。そこには私たちが覚知できる以上のもの,言語化できる以上のものがある。それにもかかわらず,それは体験として触れうるものであり,それゆえ,現象学的に(その人の主観的な体験の中で)取り組むことができる。これは理論ではない。それはそこにあるのだから。

 世界と個人的な観点は,混じり合って徐々に色合いを変えていくが,どこで「わたし自身の」体験という特別な色になるのだろうか? 間主観性は(メルロ・ポンティの観点でもジェンドリンの観点でも),自分だけの「純粋な」体験をするという日常的な意味に疑問を投げかける。対象物や他人の世界から一歩引いてそれを知覚する,自分だけに枠づけられた主体は存在しないのではないだろうか。

 ジェンドリンの哲学が心理治療的に役に立つのは,それが「方法論的に個人化される」ものだからである。しかし,彼はこれが「単に個人的なものであり,社会的あるいは歴史的なものではないと誤解」されるのを心配している。「さらに進めて考えれば,歴史的なプロセスは個人的なものである。歴史は個人を通して動いていく。なぜならば,個人だけが考えたり話したりするからである 。」(レヴァイン,1997, p95) だから,私たちの体験は「主観的な」ものでも「精神内的な」ものでもなく,相互作用的なものである。その場所は「内側」ではあるが,外-内側である。ジェンドリンによれば,私たちが感じることは,内的な内容ではなく,他とととも私たちが生きていることの中で起こっていることの直観なのである。

 セラピーでは,私はそれに特別なやり方で注意を向ける。そこから,他の人の世界と私との相互作用についての新しい情報が得られる。このプロセスによって,からだの「・・・」が一歩ずつ進んでいくのである。それが永続的な内容であることは決してない。それはさらに進んでいくプロセスである。言語がこの「・・・」から話されるとき,それはその状況を前向きに生きる方法となる。「『まだ形になっていない』暗黙の発言に,このような敏感で現象学的な注意を向けることこそが,しかし,普通からだについての概念的に考えるときには排除されている。」(ワルリス,1997,p277-8) からだは人であり同時に世界となる。主観的でありかつ間主観的である。この二つは常にともにあるのだから。

 私はクライエントを誘って,今ここで私といるときのからだがどんな感じかを感じてもらう。クライエントがそのつもりになったら,すこし沈黙の「フォーカシング」の後,クライエントは,緊張しているというかもしれない。それは,私に何かを隠しているという感じらしい。次の沈黙の後,彼は,本当は言いたいことがあるけれど,私がそれにどう反応するかを恐れていると言うかもしれない。続いて「違う,何かを告白したい感じなんだ。」そして,このことばによって,深い息が出て少し楽になる。このことばを言うことがプロセスを少し進めている。そしてまた彼は沈黙に入る。セッションが続いていくと,私たちの相互作用がだんだんと進む。なぜならば,私たちの注意が,私たちの間主観的な世界に向けられているからである。この間主観的な世界は,それぞれの瞬間に私たち個人の身体の中にあるのである。

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