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探索の深奥にある真実を求めて

デイビッド・ローム     
Shamphala Sun, 2004年9月号、pp.60-63,91-93
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  体の中で、生命が直接に感じられる微妙な方法が思考や概念や感情の
レベルの下にあります。デイビッド・ロームはこのフェルトセンスが
フォーカシングの実践を通してどのように解明されるかを説明します。

 東洋に起源をもつ武道、ヨガ、華道、茶道などの瞑想的な実践は西洋においての仏教に加えられ喜ばれています。現在、西洋の哲学と心理学に起源をもつフォーカシングを実践する仏教家がふえています。瞑想の実践を深めるために、また瞑想と現代の西洋的生活に橋をかけるために彼らはフォーカシングを価値ある手段であると理解しつつあります。

 フォーカシングとは何でしょうか。フォーカシングは身体的に感じられる体験過程に人がやさしく興味を持って注意をはらってみていくものです。「身体的に感じられる」(”bodily felt“)とは、ここでは 非言語的なもの、または私達の概念形成の下にあるものを意味します。それはただ身体的であるというよりも曖昧な身体的感覚として体験されます。また私達の身体がまさに今特有の状況をかかえている在り方を意味します。

 「フェルトセンス」と一般に呼ばれていますが、この体の感覚は感情を感じることと同じではありません。フェルトセンスは怒りや嫉妬や欲望のような感情の下にあり、名前をつけるには、とても曖昧ではっきりしません。感情は「このようなことが起こったので私は怒っています」というようなあらすじを伴いますが、フェルトセンスにはそのような関係はありません。フェルトセンスはもっと曖昧で身体的なものです。フェルトセンスに触れた人は、「私の胸骨のちょうど下あたりにびっくり箱に押し込められたようなところがあります」と言うかもしれません。

 私達が最初にフェルトセンスに気づく時、それはまだ「特定の何かについて」ではありません。概念化ではないのです。しかし私達がフォーカシングのプロセスを使い、フェルトセンスと共に居て、フェルトセンスを傾聴すると、よりはっきりした焦点(ゆえにフォーカシングという名なのですが)にフェルトセンスは入って行き、私達の状況に新しい理解を与えるやり方で「開く」かもしれません。その時点で―急ぐことはできませんが―私達はフェルトセンスに概念を試し、それが何についてなのか問い始めます。しかし概念化ではなく、フェルトセンスそれ自体がいつも基本です。フォーカシングの実践は繰り返し概念の働きを外して、体の感覚にもどることを含んでいます。

 フォーカシングには仏教の瞑想と共通する二つの側面があります。一つは、その瞬間に人が体験することに何が存在しているのかによく注意を向けるために 心によく起こる取り留めのない思いを止めることであり、もう一つはより深い意味が現れてくるのを招くゆとりのある注意力です。フォーカシングは仏教的言い方をすると、心を御すことであり、また洞察の実践でもあります。

どのようにフォーカシングはなされるか

 フォーカシングは、練習すれば、ほとんどいつでもどこでもすることができます。エレベーターの中で、重要な会議の前、会合の最中.歩いている時も、ドライブしているときもというように。しかし、フォーカシングの実践を学び、そして深めるためには、瞑想をするように静かな時間をとりたいと思うでしょう。

 一般的にフォーカサーは気持ちのいい座った姿勢になります。それから体の内側に入っていくために1〜2分取ります。リラックスして身体的感覚が敏感になるのを助けるために、ちょっと体をチェックするかもしれません。やさしく胴の部分、喉からお尻までの全体に注意を集中しながら「内側に入って」いきます。これは彼らを「頭から離れ」、体の部分―心臓、肺、脊椎、胃、腸に触れるようにします。そこで私達は内臓で感じるようなレベルに達します。そこで一旦止まります。もう存在しているかもしれない、あるいはしだいに形をなしてくるフェルトセンスに調子を合わせるために、やさしく忍耐強い注意をもって待ちます。

 フェルトセンスが存在するとき、まだ言い方を知らないものを表現しようとする小さい子どもに対するように、「それとともに居つづけます」。フェルトセンスの身体的な特質にただともに居る時間を持ってから、フォーカサーはそのフェルトセンスに「ぴったりする」言葉や短い句又はイメージをみつけようとします。これは「ハンドル」と呼ばれます。ハンドルはフェルトセンスをとにかく説明しようとするのではなく、今、現在感じているものについての感触的、視覚的、比喩的描写です。「跳んでいるような」とか「ベタベタする」とか「硬いボールのような」「暖かい縁のあるぐにゃぐにゃの場所」とか言うように表されます。フェルトセンスは普通特定の場所、胸またはお腹、右側か左側にあります。フォーカサーはこれを手で指し示すかもしれません。時としてジェスチャーが言葉よりもむしろハンドルを示すでしょう。

 フェルトセンスそれ自体がいつも第一であることが基本です。出てくる言葉によるハンドルはどれもフェルトセンスに対してそれがぴったりかどうかを見るためにチェックされます。フォーカサーはハンドルとフェルトセンスの間を行ったり来たりするでしょう。その合い方が最適なものになるまで、そのハンドルを調節し置き換える「共鳴」のプロセスです。フェルトセンス自体がほんの少し変化するとき、あなたはフェルトセンスとハンドルがぴったり合ったことがわかります。その変化は緩むような開かれるような、しっかり認知されたという感覚です。見知らぬ大群集の中で迷っている時、突然あなたを名前で呼んでいる親しげな声を聞くようなものです。

 この共鳴のプロセスはフェルトセンスがよりはっきりと現れて、焦点を定めるのを助けます。さらにフェルトセンスが私達にもっと語るようにさそいかける「質問する」と言われる次のステップがあります。フォーカシングの創始者ユージン・ジェンドリンによればフェルトセンスの確かなしるしは、フェルトセンスが問いかけに答えることだと言っています。フェルトセンスはいくつかの質問があわず、答えないこともあれば、ぴったりあって答えることもあるでしょう。フォーカシングの質問は果てしなく様々ですが、よく言われているのは次のような問いです。「この問題全体のいちばん悪いところは何ですか。」「今のこの状況は何を望んでいますか」「すべてがうまくいくには、何がじゃまなのですか」

 フォーカシングの魔法は、問いかけを止めて、それに答えないこと―頭で答えないことです―そうすると現れてくるのです。あなたは、人と話す時のように待ちます。待っていると相手は応える前に内側を探る時間をとります。忍耐心を持ち、気づかい、興味を向け注意して待ち、体の中に応えがあるかどうか気づくようにします。それが出てこないかもしれません。何も応えが来ないのは、あなたが頭で推理的に考えるのではなくて、ほんとうにフォーカシングをしているしるしなのです。時々フェルトセンスは問いに応えません。しかしその問いを少し変えて、組み立てなおすと突然応答します。この問いに、遊びのような、探検をするような、創造的特質があります。あなたが前もって何か得られるものを知ることはありません。知らないことが、新しいことが起こってくることを可能にします。

 この実践での成功の鍵は「フォーカシング的態度」と呼ばれるものです。それはやさしく勇敢な自己配慮の許容力であり、それは徐々に養われます。「配慮の気持ちでいること」(”caring-feeling-presence”)あるいは「自己への共感」(“self-empathy”)としてフォーカシング界に知られていることは、maitri(慈)と呼ばれる仏教の徳によく似ています。maitri は自分自身に向けられる心暖まる親切又は友情のことです。それは自分と友達になろうとする力強く激しい、時には魔法のような方法です。

ひとつの例

 今ここで私はこれを書いていますが、フォーカシングをするために書くのをやめ、しばらくすると、何かを感じます。内側を感じるようにすると、私の胸のあたりにかたいものがあるのに気づきます。私はそこに居たいだけたっぷり居てもいいのだよというように親しみをもってそれを認めます。それから私は内側に問いかけます。このかたさはいったい何についてなのですか? しばらく待ちます。あっ、今、私にはわかります。私はこの論文がどのように受け取られるか気になっているのです。フォーカシングが良いものであると読者に納得してもらえるようにとプレッシャーを感じているのです。そうです。今、私は読者がこれを読み、霊的ではないではないか、自己愛を容認している、感受性訓練だ、セラーピーだ、自助である・・・等々の全ての反論を迎え撃たなければと自分自身を追い込んでいるのがわかります。実際私は特定のある反論を名指しする必要はないのです。どのように人々が反応するかについてそのすべてに私が印をつけていくこと自体をフェルトセンスとして私はそれと共にいることができます。私はそれとただ共にいるために数秒をとります。概念ではなくフェルトセンスとして、どのように人々が反応するかについて抱えている、体の内側でプレッシャーを感じている場所を共感的に感じています。

 今私は問いかけることができます。もっと気持ちよくなるために何が必要なのだろうか?私は再び待ち内側に聞きます。そうです、私には今わかります。この記事は誰かに何かを証明するためのものではありません。また自分自身を納得させるものでもありません。この実践が私にとても役に立っていることを述べて、人々にそれを提供することなのです。読者は彼らのフェルトセンスでもっと探索するかどうかがわかるでしょう。わからない人も多いでしょう。わかる人もいるでしょう。それがあるべき姿なのです。もう一度、今、内側をチェックしてみると胸のかたい場所はやわらかくなって、これを書き続けるための新鮮で暖かいエネルギーを放っています。

パートナーとフォーカシングをすること

 ひとりフォーカシングは事実上いつでもどこでも行えるのでとても良いものですが、フォーカシングは、他の人と定期的に相互に行われるとさらに効果的です。キャロリンは私のフォーカシングのパートナーで、私達が隣同士であった4年前から始まりました。3年前キャロリンがニューヨークからノースカロライナへ引越してからも私達は毎週1時間電話でフォーカシングを続けています。事実かなりのパートナーとのフォーカシングは電話で行われています。それは相対して一緒にするフォーカシングと少し違いますが、驚くほどうまくいきます。電話の向こうに親しく気づかってくれる人の存在を感じて、自分自身の中へ深く入っていくことができる質が高い在り方です。

 フォーカシングのセッションの間パートナーはフォーカサーとリスナーの役を均等に分けて交代します。あなたがフォーカサーの時、あなたは内側に入っていきます。準備ができたら、気づいていることを声にだしていきます。それは普通の会話というよりも声になった内的な黙想のようです。論理性を重んじるとか、あなたが言いたいことを相手がわかっているかどうかを気にする必要はありません。途中で文章が終わることや、方向が突然変わることもよくあります。リスナーは親しく開かれた気持ちで、どこへ向かおうともあなたの体験過程にただ共にそいつづけます。

 フォーカサーは(瞑想者のように)先輩のトレーナーの指導で週末や一週間(ウィークロング)のプログラムに参加し、2人組で多くの時間を過ごします。フォーカサーによっては決まったひとりのパートナーだけでなく、たくさんのパートナーと、個人的なことであったり、仕事に関連していたり、創造的であったり、生活の違った側面についてフォーカシングします。

聴く技法

 どのように聴いていくかというフォーカシングの訓練は私が出遭ったところでもっとも深く、感じやすく、影響があるものです。ユージン・ジェンドリンがシカゴ大学で共に研究した、アメリカ心理学者の草分けであるカール・ロジャーズが治療的に使う「無条件の肯定的配慮」の系譜をたどると、それは判断せず解釈せず極めて共感的です。なによりもその過程で自分自身の居場所を失うことなく、他者に真にそうことを鍛えてくれます。聴いている間 感じたり、判断したり、思い出したり、「お役に立てる」考えが浮かんだりするなど、私達はもちろん反応するかもしれません。しかし私達の仕事はいつも注意をフォーカサーにもどすことです。私達はいつフォーカサーがフェルトセンスに触れるか気づくようにします。普通は、話しの流れが止まり、沈黙やアーとかウーとかはっきりしない手探りする特徴が出てくるところがポイントです。

 ここでリスナーは何か画期的なことをする機会を得ます。フォーカサーの完結しない文を完成したり、問題を解く考えを提供したり、同じような経験を述べたりする代わりに リスナーはフォーカサーが使った鍵になることばや句を伝え返しすることができます。その効果はこだまや鏡のようです―伝え返された自分自身のことばを聞いたときフォーカサーは実際のことばに表されないフェルトセンスに対してそのことばをチェックする機会を得ます。ただちにそれがぴったりとあっているなら、それでよしと認める経験をし、さらに先へ進むように促されます。返されることばを聞いて全くあっていないと気がつくことがあります。その場合フェルトセンスを正当に扱っていないのです。ただ先に進めるために習慣的な相互作用のパターンを強要するのではなく、体験から新鮮に語るためにこのギャップを使うことができます。出てくるものはほんのちょっとの修正だけのこともあるし、まったく期待しない非論理的なものがでてくることもあるでしょう。

 時を経るとフォーカシング・パートナーシップで培った傾聴の技法は自然に深い聴き方を導き、毎日の相互関係におのずと現れてきます。相互関係のゆきづまりのパターンは解き放たれ、さわやかな新しいエネルギーと洞察が会話の中に現れてきます。

フォーカシングと瞑想

 フォーカシングは仏教の瞑想へのすばらしく親しみのもてる実践になりえます。アメリカで禅の指導者達の長であるロバート・アイトキン老師は瞑想を準備する方法として学生達にフォーカシングを推薦しています。最近のユージン・ジェンドリンとの交流の中で彼は、「たくさんの仏教徒がフォーカシングに興味を持っているとあなたがわかってうれしい。私は個人的な面接でこの実践を推薦し続けます。学生達は価値ある結果を報告しています。私は静かな心が重要である座禅に含まれる知性に基づく修行 the noetic workの準備の実践としてフォーカシングを扱っています」と言っています。

 フォーカシングはしばしば「クリアリング・ア・スペース」と呼ばれるステップで始めます。これは瞑想の先がけとしてよく使われます。「クリアリング・ア・スペース」は体に感じられること何でも―心配や必要、解決されていない状況―に気づくために時間をとることで成り立っています。そのような事柄それぞれを、その中に入っていくのではなく、ちょっと認めることによって、その問題は、あなたが共に居ると選んだことを妨げないで少しリラックスすることができます。あなたがフォーカシングや瞑想やその技術をしているなら、これは特別な状況か挑戦であるかもしれません。クリアリング・ア・スペースは何かを欲しがっている子どもに注意を向けるようなものです。あなたの関心を欲しいという要求をなだめ、ゆっくりさせるために、ほんの少し注意をそちらに向けることでたいてい十分なのです。出てくる事柄を抑えられません―フォーカシングや瞑想のなかでもまた出てきます―しかしその緊急性は静まり私達が落ち着くことができます。

 フォーカシングが瞑想を補う第2は正式な瞑想の実践と日常の生活の間に瞑想的な橋をかける役割を提供することです。私達の多くは世捨て人ではありません。私達は家や家族や友達や世間的な関わりを棄てていません。瞑想は私達が日常の要求のまわりにより空間を作る訓練をする一方で 瞑想はその要求とのかかわり方についての洞察を常に直接与えてくれるとはかぎりません。もちろんそのような洞察はおのずから起こってきます。しかし瞑想においても、瞑想自体も問題を解決することを目指していません。その第一の目標は問題の所有者haverを解決することです。

 フォーカシングは、瞑想と離れて、私達にどのように私達の情況や問題や決定あるいは創造的な挑戦を静観的な気づき contemplative awarenessの中心へ意図的に招き入れるか、またその気づきに丁寧な配慮した興味や関心をよせるかを示します。さらにこの情況は、私達が抱えている在り方に新しい理解と転換をもたらす方法を展開し始めるかもしれません。これはしばしば実際的な洞察―「行動へのステップ」―へと導くでしょう。私達は行き詰っていると感じられた生活の局面を解決するためにこれを使い、歓迎し前進する動きをもたらすでしょう。

 フォーカシングは、私達が生活、人間関係、環境、仕事への挑戦、希望、恐れ等々にどのように関わるかにとても関係しています。また「霊的なものへ向かう迂回路」に対して援助する力強い解毒剤でもあります。ジョン・ウェルウッドは「覚醒の哲学に向かって」というすばらしい本の中で、この「霊的なものへ向かう迂回路」について、「個人的で感情的な<未完の仕事>を回避するために、不安定な自我の感覚を強化するために、基本的な欲求や感情や開発的な仕事をけなすために、つまり悟りという名において、霊的な考えや実践を使うこと」と述べています。

 3番目に、これがもっとも興味のあるところですが、フォーカシングは瞑想の経験そのものの質に重要な影響を与えることができます。仏教の各宗派は広く多種にわたる瞑想への導入方法を提供していますが、それらのほとんどは、阿那波那経Anapanasmrtiにある正念mindfulnessの四つの基礎(四念住)について仏陀が最初に説教したことによっています。そこでは「ありのままの注意bare attention」または一瞬一瞬、人の意識の中に起こってくる単純な気づきと規定しています。実践ではここに問題が起こります。

 私達の中に起こってくる気がかりの多くは、ただ全体の一片だけを示す氷山の一角のようなものです。もし私達のありのままの気がかりについての実践があまりに厳しいか、いいかげんであると、私達は氷山の一角から一角へ飛び移ることで終わってしまうでしょう。これでは私達が意識している思考、感情、心理的かたよりの下に潜むより大きな「何か」を認識しないことになります。

 心を静める最初の段階では、私達はとりとめなく感覚や知覚へ「入っていかないように」教えられていますから、この種のちょっとした気づきはあったほうがよいのです。しかし私達は偶然出遭う全ての人々を一瞬一瞥しますが、その人全体としてひとりひとりを感じ取らないように、知らないでおくというような性質もあります。ここでフォーカシングは私達に中間の道を示してくれます。それは散漫になる傾向に流されることなく、起こってくることの「全体」」を感じ取る道です。それはあなたが出遭っている人、この人を、今ここで、まさに今、でもまだ会話するまでいかない人を取り入れるために全瞬間使うようなものです。

 チョギャム・トゥルンパ・リンポチェChogyam Trungpa Rinpoche は正念の瞑想 mindfulness meditationについて「触れそして行く」のプロセスであると語っています。「触れる」はただ触れて放すのではなく、ある心の様を真に認め、味わうことを意味しています。それはやさしく抱きしめることと表面的に軽くたたくことの違いです。この触れること、認めること、味わうことは、洞察を発展させるもとになる種―新しい意味が現れてくるようにする現象に対して存在している在り方―です。西洋人は伝統的文化を持つ人々より体が経験することを切り離しがちなので、フォーカシングの実践は、散漫でなく心に起こってくる純粋なものに触れられるように私達の能力を開発してくれます。Pema Ch^dr^nが、最近、瞑想の実践に疑問をもって質問した人に助言しているように、「秘密の要素―言語を使わない直接的な経験―があります。」

フォーカシングと西洋哲学

 フォーカシングが始まったその基になる考え方について少し述べることは役に立つかもしれません。哲学的にこれは現象学の系譜をたどります。現象学は、抽象的な形而上的主張より、直接的な一人称の経験の優位を強調する21世紀の運動です。たとえば現象学は、デカルトが主張した「われ思う故にわれ在り」よりもむしろ、「私達のどのような考えも除いて、考えるという実際の経験とはどういうことなのか。私達が現象自体に注意を向けたら私達は何に気づくのか」を知ろうとします。仏教の瞑想との共通性は明らかです。

 フォーカシングの実践は哲学者であり心理学者であるシカゴ大学教授、現在名誉教授であるユージン・ジェンドリン博士によって1960〜70年代に開発されました。ジェンドリンは、モダニズムとポストモダニズムの両者を超えて、革新的非二元論、プロセス指向の「暗黙知の哲学Philosophy of the Implicit」において西洋の知的伝統を推進させました。

 ジェンドリンは、簡単に言うと生命のプロセスはすべての実体または物体に先行していることを意味する「相互作用が最初」にあると彼が呼ぶ前提から始めます。人類も含まれますが、動物は環境との相互作用を続けます。私達は何も無いところから現れるのではなく、ただそのときに環境との相互作用を始めます。私達は今も常に環境と共に形成されるプロセスなのです。これはいかなる個々の生命も同様に進化的見地からみても真実です。ジェンドリンはひとりの人間は一つの物体でも有機体でもなく推進であると言っています。

 この推進または「生命が前進すること」は、食物摂取―消化―排泄―再び摂取のような機能的サイクルに表われています。しかしサイクルが止められることもありえます。私達が食べようとしていても食べ物が手に入らないことがあります。すると止められたプロセスは、飢えと私達が名づける身体の感覚をおこし、「食べ物」と呼ぶ目的物を暗示します。しかしこの飢えとか食べ物は、すべての概念と同じように、直接の経験からくる抽象概念です。述べようとしている実際に生きているそのものの微妙な質感を実物通りに表すことはできません。「飢え」と呼ばれる一般化の下に、私が今まさにいるこの情況の複雑なからだの知恵があるのです。そしてこの特定の生きている複雑さからのみ、現在の状況下で私の飢えを満足させるために何をしたらいいのかを私は知ることができます。台所の戸棚を開けてみましょうか。それともレストランへ? 今まで食べたことがない食べ物をためしてみましょうか。もしかしたらまったく食べ物ではないかもしれません。私の飢えは友達と会うことで、あるいは散歩することで満たされるかもしれません。

 人間としてこの瞬間までの私達の人生全体の経験は、常に、より成長すること、より開けていくことを暗示しています。それが実際に起こるまで、このより深い成長の形はわかりません。それは単に暗々裏(それゆえ暗黙知の哲学といわれるように)です。それが起こるとき、全く同じことは以前に起こったことはないので、それは現実の情況に対して際限なく厳密に反応するでしょう。そしてそれは小説になるでしょう。たとえば、私がひとりの人に初めて会う時、私のその経験は、以前の私の多くの出会いと似ているかもしれませんが、これは全く新しいものです。私は、決して以前他の人でこのように経験したことはありません。

 フォーカシングは「完全な道」であることを主張しません。逆に、成長や変容のための数多くある道具のひとつであろうとします。フォーカシングは、確かにある人の一番大切な黙想の実践になりえますが、他の実践や方法論と結びつくことを好みますし、教育、健康管理、ビジネス、芸術、心理学、そしてもちろんスピリチュアリティのような異なる分野に入っていきます。スピリチュアリティと世の中での行為を結び付けようという最近の議論のために、しばしばこの議題で特に召集される会議で、私たちが現在の生活という意味でそのような結合を実際に成し遂げるにはどうしたらいいかを知るには、私たちはまだとても初期の段階にいると、私には思えます。フォーカシングの実践は、瞑想の訓練をこの世における熟練した行動と混合する努力に光とエネルギーを与えることができます。

David Rome へのコンタクト: hastyrome@aol.com

(訳:秋山葉子)

Last Modified: 18 July 2005

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