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プロセスモデルへの道案内

プロセスモデルへの道案内

FOLIO-TAE(辺縁で考える)特集の翻訳

キャンベル パートン Ph.D.
イースト アングリア大学、イギリス、ノーウィッチ

翻訳:村里忠之

全体の構成

ジェンドリンは次のように言った。「私のプロセスモデルが読みにくい理由の半ばは、第3章の最後と第4章Aのdまで、私がこの本の中で私が何をしようとしているかを説明していないからである。こちらを最初に置くべきであったかもしれない。また第8章の一部はこの本の最初の方に置いた方が分かりやすかったかもしれないとも思う。なぜならそこが第8章で扱われる諸概念が最初に出てくる所だから。」

第3章の最後の部分の表題は「このモデルの動機とその現在の力」である。この箇所でジェンドリンは次のように書いている:私の計画は「生きたからだを私たちが定義する際に、からだが私たちのものである、その様な仕方で定義できる、従来のモデルに代わるモデルを創り出すことである。」そして「私たちは生きていることから語ることができるし、生きていることから語るそのことから、とりわけフォーカシングから、そしてその展開の過程から基本概念を作ることができる。これらは実際に可能であるのだから、それらが私たちを『レアルさ』に関する、従来の概念に取って代わる新たな『基礎』概念に導いてくれることは有り得るのである。それらの基礎概念を用いれば、私たちが生きていることから語ることは不可能には思われないだろう。」

私たちの現在の思考法は、人類がこの世界に有ることを有るがままの姿では認めてはくれない、とジェンドリンは考える。現在の思考法は「この世界」をこの世界が私たちに意味していることから切り離す。そして一旦そうなると私たちはこの世界の「外側に」有ることに成る。ジェンドリンは私たちをこの世界「の中へ」連れ戻したいのである。しかしもし私たちが物理的(生理学的)体系に関する現在の諸概念をもって人類のことを考えるなら、それが可能になる場所は私たちには存在しない。だから私たちがこの世界に有ることを許す余地を創るためには、この世界は再-考されなければならない。ジェンドリンの諸概念はこの再-考の枠組みをなすものである。

彼が展開する中心的諸概念は、体験の暗在的な複雑さを展開する過程から導出されている。世界を眺める方法全体を「このこと」の上に基礎付けるのは奇妙に思われるかもしれないが、実際はそうではない。体験過程的展開とフォーカシングは、意味の創造がそこに有り、その活動の中に私たちが現在の思考法が取り残した決定的な何かを見る、そのような活動なのである。フォーカシングと体験的展開とを受け入れる新しい思考法を開発できるなら、私たちが「私たちである」ことを認める思考法を私たちは持つことができる。

体験過程の暗在的複雑さの展開(第8章)においては、論理学や数学において推進(carry forward)されるのとは別の仕方で私たちを推進するフェルトセンスが現れる。後者においては、そこに有ったもの、例えば7+5は私たちを12へと推進する。あるいは「全て人は死ぬ」と「ソクラテスは人である」は「ソクラテスは死ぬ」へと私たちを推進する。妥当な論議という前提にはその結論が含意されている。しかしフォーカシングや体験の展開や生活のひとつひとつには次のステップが含意(imply)されてはいるが、別の意味での「含意」が「含意されている」のである。この新しい意味での含意はジェンドリンの中心的概念のひとつである。ここでは含意は推進の逆である。つまり、ある出来事が他の出来事を含意するならば、後者が前者を推進するのである。

ジェンドリンはこの「含意」の新しい意味を第2章で導入する。「飢え」は「摂食」を含意する、と彼は言う。これは論理的含意ではない(飢えには常に摂食が従うという意味では無いから)。それはまた因果的含意でもない(飢えはそれに従う摂食がなくても生じることはできるから)。その意味はむしろ次のことである。つまり、摂食は飢えを満たすものである、あるいは飢えは摂食−あるいは他の何か(例えば点滴とか)−が起こるまで続く。飢えの中には摂食の含意が有る。しかし「摂食」に該当するものが、何らかの特定の出来事として特定されるわけではない。摂食は「摂食を含意する何かを除去すること」に関連して定義されなければならない。

ジェンドリンは言う(p9):「飢えは食物を探し、見つけ食べることに関係している。」飢えは出来事であり、含意でもある。ジェンドリンのスキームにおいては何事もそれ自体では存在しない−それは常に他の何かを含意する。このように、彼のスキームは自然科学において馴染みのスキームとは異なる。自然科学では通常他と分離した何か(原子あるいは細胞のような)から出発する。これは原則的にそれ自体で存在する物である。そしてこれらの要素の組み合わせによって複雑な物体ができるとみなされる。もちろん要素間には物理学や化学の法則にしたがった関連は存在する。しかしそれらの法則は原則的に諸要素の変化無しに変化しうるのである。「原子論的」観点においては、物はそれを越えた何かを含意しないのである。ヒュームが言うように、万物が「ゆるくかつ分離して」存在するのである。そしてそれらの連結は私たちによって、私たちの理論によって与えられるのである。

ジェンドリンのシスキームにおいては、このようなゆるくかつ分離した実体は存在しない。各実体は他の実体を含意するのである。「含意された別の実体」がその含意を推進するのである。例えば摂食は飢えを推進するものである。しかしまた含意された別の実体も有る:飢えがからだを含意し、からだが環境を含意するように。ここには私たちの時間空間概念の根底に有るとジェンドリンが考える洞察が有る。彼は時間空間の概念が含意と生起の概念より重要だとはみなさない。時間は、生起によって推進される含意が有るという事実から引き出された、より抽象的な概念である。空間も他の含意から引き出される。今日普通の思考法におけるように、空間、時間、物体から始めるのではなく、ジェンドリンは含意と生起から始める。時間と空間に関する彼の詳細な論議は私にはPM(プロセスモデル)の最も難しい論議に思われた。しかし思うに、ジェンドリンが試みているのは非常に根底的な論議であることを認めるべきであろう。そうすればなぜ『プロセスモデル』(PM)が「からだ‐環境」という彼の用語から、このように奇妙な仕方で始まっているのか、を幾らか理解できる感じを持てるかもしれない。

導入部の脚注でジェンドリンは次のように書く:「私は幾つかの用語が何に由来するか分からないかのよう措定する」と。勿論用語の根拠は有るはずである。後の第7章で人類一般について、また第8章で暗在的なものの展開について、彼が語ることができるようにするために必要とされることに、それは由来するのである。しかし初めの箇所で彼は生きた物について語るために、幾つかの概念を対照している。これらの概念は後で人間がこの世界に存在することを許してくれるだろう。PMが第8章と共に始めるひとつの重要な感覚、即ち、からだに感じられる暗在的な複雑さの新しい場所というものがある。体験された世界は、今日想定されているような物理‐化学的世界から構成されることはできない。そこでジェンドリンは物理‐化学的世界を、もし彼がそうする理由を私たちが知らなければ、とても奇妙に思われる仕方で定義し直すのである。

第4章のAd-2が次の箇所で、ここでジェンドリンは一呼吸入れて、戦略的振り返りをしている。彼の言によると「我々のモデルは相互作用で始まる諸概念から出発する。」これを彼は「最初に相互作用有りき」の原理と言う。このモデルには、完全に他と分離できるもの、出来事、過程は無い。どんな物も、それが他の物の影響を受けて有る物であり、他の物も最初の物から影響を受けて有る物なのだ。ジェンドリンのIF(中程度頻度)缶の話(第4章Aのbに出てくる)はこれを理解する手がかりになるかもしれない。これはECMの26頁に引用されているポール・ヴァイスによって言及されているのと同じ要点である。(しかしIF缶の話は機械のアナロジーである点を忘れてはならないだろう。それは次の2点で「最初に相互作用有りき」とは異なる:①IF缶の調整は連続的になされるが、「最初に相互作用有りき」あるいは「相互作用過程」においては、全てが一度に即座にそこに生じる。そして②前者の調整は人の目的に従ってそのシステムの外部からなされるが、有機的な相互作用課程においては「目標」はジェンドリンが相互作用過程の「焦点化」と呼ぶ仕方で生じるのである。「焦点化」については第4章Aのfを参照せよ。)

この箇所(第4章Ad-2)でジェンドリンは言う:「最初に相互作用有りき」は空間関係と同じくらい時間関係にも適用可能である。現在は過去の推進である。そして過去は現在を含意する。現在私たちが体験することは明瞭に過去に依存するが、私たちが過去として体験することは、現在それとは別に起こりつつあることに依存する。固有の関係無しに系列的に生じる時系列の考えは人間の思考においてずっと後の方で生じたものである。それは数学的な単位と空虚な空間の中を運動する互いに独立した粒子という考えに付随する考えである。しかし、実際に生きられる世界は、どんな物も他の物との関係から切り離されて存在するのではない、そのような世界である。

第4章Adに続く箇所で、ジェンドリンは彼が必要とする諸概念を更に開発している。PMの第1〜5章は彼の一般モデルに関する章である。このモデルはからだの過程、行動、文化と言語、そして暗在的複雑さの場に対応する。第6章では、行動を再考するために彼はこのモデルを使用する。第7章のAでは諸物の型、種類、形成を導出するために。第7章Bでは言語のためにこのモデルを使用する。大まかに言って、第6章は動物の世界に関係する。その章でジェンドリンは彼の「最初に相互関係有りき」を展開して、行動、意識、知覚、動機を説明する。これらの概念群は動物(感覚、意識のある存在)に適用されるが、植物には適用されない。人間は第7章で現れる。ここでは第6章で適用された全概念がまだ使用されているが、しかし今や別の概念「層」も現れる。それは人間が互いに相互作用する「象徴的」形式と関係する概念層である。第7章は文化的、言語的、概念的諸形式を持つ私たちに馴染みの人間世界に関係する。

第8章で私たちは更なる展開、ジェンドリンがこれを単に事の始りとみなす展開に至る。私たちが体験過程の複雑さに直接参照することができると、私たちは象徴レベルを離れて全状況をからだが感じる知覚へ入っていく。それは特定の象徴形式や文化的常套形式において表現されうるものを常に超えて進む。これはこれまで創造的個人には常に可能であったかもしれない、世界と交わる方法である。この方法は、とりわけ今日の「ポストモダン」的世界、あらゆる象徴形式が相対的恣意的で、私たちを支える基盤が存在しないかのように思われる現代世界にはとりわけ有意味であるように思われる。

それゆえ、この本の構造を考える一つのやり方は、第1〜5章が「初めに相互関係有りき」を中心とする新しい概念スキームを提示し、その次にそれが有機体全体にいかに適用可能かを示していると考えることである。第6章は動物への適用であるし、第7章は現在の人間世界への、第8章はまだ殆ど知られていない「からだの知恵」である複雑さへの適用である。有機体全般へ適用された概念は動物に関しても維持されるが、さらに精緻化される。そして動物に適用された諸概念は生の人間的有り方に、そしてまた人間の通常の有り方からフォーカシング的有り方へと維持されるが、それぞれの段階で更に精緻化される。人間世界が動物世界を、動物世界が植物世界を精緻化したものとするこのスキームはアリストテレスのそれに大変似ている(ジェンドリンはとりわけアリストテレス主義者である)。

しかし各レベルが次のレベルへと移行される有り方はジェンドリンの哲学に固有のものである。大まかに言って、この移行が可能なのは、あるレベルの過程がそのレベルで推進されえないときである。第7章の(普通の人間の)レベルにおける諸過程がお馴染みの感情や一般的な意味や決まり文句で推進されえないのは、フォーカシングでは良くあることである。通常の人間世界では、情緒と発話は、馴染みの「話し」の中での一つか二つの動きといった典型的な状況の内側で起こる。そのようにではなく、自分のからだが感じる場所に注意を向ける事の出来る人はそこにこの全体の状況を感じることができる。このようなことは常にある状況下で起こる普通の文化的反応によってはなされえない。このフェルトセンスからは新しい反応のあり方が生じる。それは見事にチューニングされて、その状況全体を推進する。このように反応する際も、人は象徴無しで済ますことはできない。新しい言葉やイメージがフェルトセンスから生じる。そのからだのフェルトセンスによって人は何が有りうる反応かをチェックすることができる。フェルトセンスは象徴の働きに応答する。ジェンドリンの表現によれば、フェルトセンスは「フィードバックする客体(a feedback object)」であり、実際にはその状況を推進する一連の全体‐全体‐全体なのである。体験的展開は象徴化を前提する。もっともそれは現在存在する象徴を超えたところに私たちを連れてゆくのではあるが。

しかし丁度フォーカシング(第8章)が象徴化(第7章)を前提するように、象徴化は行動(第6章)を前提する。第7章でジェンドリンは、行動が人を推進しない諸状況から象徴化が生じうる極めて複雑な有り方を大まかに描いている。侮辱に対する自然な象徴化の反応はおそらく怒りあるいは攻撃だろう。しかし人間の文化においてはそのような「自然な」反応は私たちを有効に推進しない。実際の闘いに代えて、何かが語られるのである。人間世界では「行動」は概ね発話からなっている。状況はそのレベル(第7章)で推進される。ジェンドリンはこの移行が動物の威嚇の行為に予め現れていることを示す。発話と身振りはなお行動の一つの特殊形態である。

それからまた行動は生物学的組織の活動過程を前提する。他の行動と同様、発話と身振りは筋肉の動きと神経の発火を必要とする。有機体の生の一部では行動は不要である。(植物は全く行動しない―植物の要求は動き回ることなく満たされる。)しかし動物の場合、環境が全ての生理学的必要を提供してくれるためには、行動が必要である。飢えと関連する生理学的過程は動物を駆り立てて、摂食行為が生じるまで続く行動へと促す。それから動物は休息し、暫くの間いくらか植物的になる。行動は、植物の場合には行動無しで推進される生理学的過程を推進する動物の有り方である。社会的動物の場合には、行動のパターンは次第に複雑さを増す。つまり動物には狩をすることだけでなく、社会的位階上の他の動物を威嚇することも必要なのだ。人間はこの威嚇を、言語を用いて、文化的に適切な形で表現するだろう。適切な文化的形式が得られない場合は、大抵の人は自分の生が狭められたように、息苦しいような状況下に置かれるだろう。しかし次第に私たちは更に先のレベルを開発する。私たちはこの全状況のからだにおける感覚に注意を向け、更に前進する道を創造するための見事に調和の取れた新しい階梯を見つけることができるようになるだろう。

しかし、自分がおかれた状況に「フォーカシング」することに従事すれば、人は更に何か言葉を発するに違いないし、言葉を発することは身体的行動を含み、身体的行動はまた生理学的変化を含んでいる。フォーカシングには象徴の使用が含まれ、象徴化には行動の能力を変えるという複雑な背景が含まれ、これには生理学的変化が含まれている。フォーカシングが生理学的効果を持つ生理学的過程であるのはこのためである。もちろん、もし人が実際の生活で変わるならば、それはその身体的結果を持つに違いない。しかし「身体的」ということばも、フォーカシングでこれが可能になる有り方を私たちが理解できるような仕方で再-考されなければならない。

私はPMの構造に関して述べてきたが、その構造は、身体過程、行動、文化、言語、そして暗在的複雑さへの直接参照といった様々な「層」に関係していた。本書の中には、これらのそれぞれを詳細に説明するもっと多くの論が有る。たとえば、行動に関する章(第6章)でジェンドリンは次のように説明する:感覚と知覚は意識を含まない行動から生じるとみなすことができる。そして行動は動物が動き回る新しい空間(行動空間)を含むと。第7章では、行動の象徴的言語的形式が発達しうる有り方、そしてそれと共に、私たちが馴染んでいる時間空間の形式が発達しうる有り方を、彼は論じる。第8章ではそれまで予め説明した事を基礎に、暗在的に複雑な体験過程の理論を精緻化している。その際、第8章において、私たちが再度それ自体特徴的な対象を持つ新しい種類の場所に入る仕方を示している。私たちが人類の理解の全く新しいレベルへのほんの第一歩を踏み出したに過ぎないことがここで明らかになる。その理解は直接的な体験的参照と概念形式との間を行き来する。その一般モデル(第1〜5章)の箇所にも、もっと多くの論がある。その一部はジェンドリンの以前の著作『体験過程と意味の創造』を読んだ人には馴染みのものであるだろう。

これらの全てに加えて、PMを一貫する別の主題が有る。既に見たように、ジェンドリンは時々立ち止まっては、自分がそれまでしてきたことを振り返る。彼の作業は第8章、暗在的な複雑さからの概念-形勢が論じられる章に由来している。PMそれ自体がこの種の革新である。つまりジェンドリンがPMを造るのは概念を開発することによってであるが、その方法は第8章の素材を理論的に土台支柱として立てることによってである。彼自身、概念形成の方法(これはTAEで可能になる)を、それを説明するために開発してきた自分の理論より重要なものとみなしている。この態度は『からだにあなたの夢を解釈させる』で彼が取った態度と同じである。そこで彼は次のように書いている。「もしあなたがこの理論を好きでなければ、その理論が、この本が説明している体験的諸ステップを邪魔しないようにしにしなさい。体験的ステップのために理論は要らない。 ...理論は『現に有る』ものを代表するのではない。理論は意味を作るが、意味-形成自体が『過去に有ったもの』を拡張する一種のステップなのである。それは更なるステップへと開かれている。そしてその更なるステップが理論に合致し続ける必要は無いのである。」

幾つかの特殊問題

第1−5章:

 ジェンドリンのモデルはプロセスモデルである。私たちに馴染みのモデルは個物(原子のような)から出発する。それから変化の概念、他の個物との関係の概念を展開する。このモデルでは、諸物は本質的に分離しており、外部と関係するのは同一の時間-空間の枠内で、運動の法則に従うことによってのみである。このモデルで問題になるのは、諸物(原子)が同一のままであり、互いに他から分離している、その基本的な枠組みの中で、変化し、相互に関連しあう事態を説明するのが困難だという点である。

ジェンドリンのモデルでは、問題は逆である:ここでは安定性(変化の欠如)を説明しなければならない。それから個々の実体にとっては、全てが過程、連続であり、各自が他に依存している基本的枠組みの中で、安定性を説明しなければならない。

この『プロセスモデル』は変化、過程、相互作用から出発する。

それは「含意」から始まる。含意は既に関係と変化を含んだ概念である。

含意へと何かが生起する。それはその含意を推進するかもしれないし、しないかもしれない。

もしその含意が推進されない場合には、そのプロセスは停止する。そして含意はそのままである。これが変化から始めて、変化しない事態に至る最初の点である。

そのプロセスを再開する何かが生起したとき、それはその何かが認知されたかのようである。再び「同じ」である何かがそこには有るのである。

私たちには未だこれまでのところ身体の概念が与えられていない。しかし既に停止した過程継続する別の過程との区別は与えられている。これが相互作用する全体の中での最初の分離である。

私たちは「からだ」を或る過程が停止されるときに継続するものであると言うことができる。からだが停止された過程を運ぶのである。

諸過程は相互作用する。過程はその過程によって既に影響された他の過程によって影響される過程である。

生起は関係する全過程の焦点化である。

75〜77頁:間に起こる出来事は停止において展開する―ジェンドリンはこれを「停止/入stop/ons」と言う。

これらの間に起こる出来事の中には繰り返し、あるいは反復が含まれる;ジェンドリンはこれを「葉出しleefing」と呼ぶ。これは最初の僅かな停止した過程が僅かな変化を繰り返し、新しい連続を形成することである。

  このパターンそのものが異なる「レベル」で繰り返されるのを私たちはもっと後で見るだろう―あるレベルで停止されるものは他のレベルで推進するのである。

  反復は停止した過程の一バージョンである。それはその過程をバージョン化するのである。

  (このモデルにおいてジェンドリンは一貫して名詞形を動詞化する。それで私達はバージョン化versioning とか連続化sequencingといった用語を持つのである。)

 80〜82頁:明らかに異なる二種類の変化が有る:相互作用の変化と生起の変化である。これは重要な区別であるが、少し説明が要るだろう。

 小虫のような有機体の歩行と呼吸といった二つの過程を考えてみよう。

  

相互作用:

歩行と呼吸は相互作用するが、それは小虫が相互作用システムだからである。

呼吸が違えば、歩行も違ってくる。またその逆も言える。

歩行の変化はまた呼吸の変化である。またその逆も言える。

歩行の違いは行動の変化と同時に起きる。歩行と呼吸は起こっている事の二つの側面である。ある側面が他の側面に影響を与えるのに、時間は掛からない。「これは暗在的秩序に基本的なことである。」(82頁)しかしこれが話しの全てなら、変化の連続は無いだろう。全ては同時に起きることになるだろう。

生起:

   小虫が歩いている地面の表面に埃が積もる場面を想像してみよう。これは環境の変化であって、相互作用の変化ではない(埃の降下は小虫の内部で生じるのではない)。今や小虫の歩行は埃を巻き上げる。そして歩行が変わるのは、埃の中の歩行がその脚の動きに影響するからである。

この変化は埃の降下と同時に起こるが、結果としてそれ以上のことは起こらない。新しい環境下で小虫の歩行は変わる。そしてまた変化の連続は生じない。

変化した歩行・呼吸は環境の変化によって引き起こされた実際の生起である。

呼吸の変化によって生じる歩行の変化は相互作用的変化である。

しかし、実際には相互作用的変化と環境変化の双方があり、変化の連続を生じさせるのは後者である:

小虫の歩行は環境の変化によって変わる。変わった歩行は埃を巻き上げる。その埃は小虫の呼吸に影響する。変わった呼吸は、相互作用によってまた歩行に影響する。この変化はまた埃のあがり方に違いをもたらし、それがまた呼吸に影響するといった具合に変化は連続する。

 

第6章:行動、感じること、知覚、動機

   介入的出来事(行動停止中に生じる)の一種は反復である。そこでは、停止された過程の最初の部分が繰り返す。これらの反復はその停止を「バージョン化」する。もしそのような反復的過程が多くあるならば、それをその有機体の特別な活動分野とみなすことができる。この分野は「振動」(まるでレーダー信号を発信しているかのようなので)である。そして環境とその有機体のからだの残りの部分における変化はそれらがその振動の中で作る変化によって登録されるのである。

反復的活動分野、有機体の「登録所」はこのように変化にとりわけ敏感である。それは環境と有機体の他の分野との双方における変化を登録する。

環境と有機体内の変化が登録所に変化を作り出すだけではない。登録所の変化はまた、有機体の中に変化を作るのである―有機体はそれが登録していることの結果として動くのである。この動きは単に環境の変化の結果(海によって穿たれた貝殻の穴のような)ではない。それは有機体自身が、登録の結果作り出す動きである。有機体は単に動くのではなく、いまや行動するのである。

その動きはそれ自体、環境の変化にそって登録される。

93〜4頁:行動は新種の推進(carrying-forward)である。行動は一過程の停止の一バージョンである。その過程はまだその行動の内に含意されている。適切な環境側面が生じれば、その過程は再開されるだろう(その過程の含意は「まだそこに有る」;それはそこに暗在している。)しかし停止がそこにあり、行動が生じつつある間は、新種の推進が有るのである:有機体の運動の結果が登録所の変化であり、その変化が今度は有機体の動きに影響するのである。

さらに展開すれば、有機体の動きはその動きが普段作っている登録所の変化を含意するようになる。展開のこの段階で、もしこれらの登録所の変化が実際に生じるなら、それはその含意を推進する。もし登録されたことが含意されたことと異なるならば、その行動の連続は停止する(子羊は崖っぷちで立ち止まる)。

95頁:有機体はそれが動くとき作り出す変化を登録している。それはそれを感じている。それはそれを意識している。その登録自体が知覚とみなされても良い。これまで感じることと知覚とは行動の一面としてのみ生じている。(顕在的行動と区別された感じることと知覚とはもっと後でのみ生じる。)この行動は停止された過程が再開するまで続く。この再開はその行動の目標とみなされうるだろう(これは「目標」の「早すぎる」使用ではあるが)。この行動は、停止された過程を再開するものによって「動機付けられる」と言うこともできる。

 102頁:多くの行動連続が展開する。それは「場」を作り、その場の内では各行動は他の行動の可能性へ向けての含意を持つ。私たちが見るように、新しい「レベル」の発展につれてそれに対応する種類の場が開かれるのである。

 109頁:行動の連続は堅固な対象を生み出すことができる。猫が小鳥を狙うとき、その小鳥の登録のように。猫が走るとき、そこには小鳥のみが居て、全景色、木々、草、石は速やかに猫を通過する。そうした対象はこの動物の行動「から抜け落ちる」。これらの対象が、ある特定の動物にとって何であるかは、その動物の生活と行動とに依存する。対象はただそこに有るのではない。全ての動物に同じことが言える。

 

第7章:身振り、自己-意識、表情、音、言語

122頁:多くの行動は同じ種の他の成員に関連して生じる。行動の相互関係が停止するとき、その行動の最初の部分がなお生じ、繰り返す。これが身振り、「ダンス」である。これは次のレベルの始まりである。

この身振りは現在の行動文脈の翻訳、バージョン化である。この段階における有機体は動物であるから、彼らはすでに環境に対して感じること、知覚を持っている。しかしいまやその身振りの連続は彼ら自身が感じていることに関する意識をもたらす。

この自-覚は最初に他の動物が居る場合にのみ生じる。しかし後ではそのような知覚はその行動文脈に間係する対象によって引き起こされる。

同時に新しい種類の場が形成されつつある。それは人間の場であり、そこには行動を控える可能性、行動を実際に行わないでそれを象徴化する可能性が開かれている。この種の場は行動の場とは非常に異なっている。行動の場は、あらゆる可能な含意、つまりある行動連続が他の行動連続の可能性を変える有り方によって構成される。

この新種の連続には物事の外観(音、イメージ、動作)が含まれる。これは種々の事柄の始まりである。―外観はあの種の事物の外観である。もっともまだここでは「種々の」外観はまだ十分には展開してはいないが。同様に音は事物の種々の音である。呻きはあの種の―例えば傷ついた動物の―行動文脈の音である。それはその時点でのその動物のからだの状態と本来的に関連している。しかしそこでは事物は一般的に外観あるいは音を持つようになる。いまや風そのものと同様風の呻き(うなり)も有りうるのである。

音はとりわけ行動の文脈を表現する傾向がある。そしてこれが言語の始まりである。最初、音は図像的(擬音的)象徴である。それはあの行動文脈の音である。しかしさまざまな行動文脈の音たちが展開し、新しい文脈で相互作用するにつれて、音の諸形が固有の体系を作り始める。

それでも言語は、単なる取り決め事ではない。言語は、それが生じるからだと行動の文脈に根ざしている。(それが儀式が深い影響力を持つ所以である。)

この段階になると、身振りは行動におけるその時点での休止ではなく、行動はいまや大体言語から成り立つ。これはFLIP(165頁)である。その後では完全に人間世界に入ることになる。

第7章までの要約:

身体-過程は停止されうる。そしてそのとき、この過程の迂回として行動が生じる。その行動はなお身体-過程である。しかしそこには新しい形が加わり、その形が元の身体-過程を精緻化するのである。それは停止した過程の中の変化の連続である(それがその停止を連続させる)。

  同様に行動も停止されうる。そのとき身振り、象徴化、そして言語が、行動の迂回として生じる。象徴化は同じ停止を連続させる。それはなお行動であるが、元の行動種を精緻化する。象徴化(身振り、発音、ダンス)は停止した行動の一バージョンである(それが停止した行動をバージョン化する)。それは停止した行動の中の一連の変化である(それが行動を連続させる)。

 

第8章:全状況のからだの感じ、フォーカシング

 さて、同様に象徴化は停止されうる。それ以前と同様に、新しいことが生じうる。象徴化が停止されるのは、私たちが私たちを推進しうる言葉(イメージ、身振り等)を見つけられないときである。これがフォーカシングをするときに私たちが置かれた状況である。他の停止と同様、通常の過程の最初の部分が繰り返し生じる。これは対象あるいはデータの新種―即ち全状況のからだの感じ―である。そしてそれは新しい連続として生じる推進の諸ステップを待つことができる、新しく分離した「私」である。通常のレベルで停止と逆説のみが可能であったところで、通常の文化的言語的概念的レベルを越える新象徴的諸型が、体験過程の暗在的複雑さから生じるのである。文化と言語の連続の全てが暗黙のうちに新しい仕方で推進される、丁度身振りにおいて、行動がまだ続いてはいるが、新しい仕方で続くように。そして丁度身振りが新しい種類の場(象徴的場、型とイメージの場)をもたらすように、第8章は新しい種類の場をもたらすのである。それはその中で、私たちがからだで感じた状況の全体としてのバージョンを「持つ」ことができる、そのような場である。

  この場はイメージ-場とは異なる。イメージ-場は第7章の段階に属する場である。例えば、もし私たちがフォーカシング中にある問題を措定することを想像した(イメージ化した)としても、それが実際に措定されたかどうかという問題は残るのである。それは第8章の場において措定されるのではなく、第7章の場において措定されうるのである。

 フォーカシングが適切に記述されうるのは、第8章の諸概念によってのみである。しかし、各レベルはそれ以前のレベルの上に建てられるのだから、フォーカシング中に起こる諸変化は同時に象徴化における、行動における、からだの諸過程における変化であるのである。これが、フォーカシングが私たちを変えることができる理由である。

  

参考文献:

 さらにジェンドリンの理論を知るには、『あなたのからだにあなたの夢を解釈させよう』の付録Bを参照せよ。上記の引用はそこから引いたものである。また彼の論文「クライエントのクライエント;意識の辺縁」の理論の部分、(RLレヴァン、JMシャイン編『クライエント中心セラピーと人間中心アプローチ』ニューヨーク:プレーガー(1984)を参照せよ。これらの論文はPM自体よりずっと読みやすい。しかし、もちろん多くの重要な細部は欠けている。