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ホールボディ・フォーカシング--- グラウンディド・プレゼンスにいること

WholeBody Focusing --- Being in Grounded Presence

ケヴィン・マクエヴェニュ
認定コーディネーター,フォーカシング・トレーナー,トロント・カナダ

(日笠摩子訳)

 この記事を書くお誘いは,私がグラウンディド(地に足のついた)・プレゼンスにいることのよい一例になります。なぜかわかりませんが,そのお誘いを読んだとたんに,私の身体が目覚めました。私の芯が,生き生きしてプレゼント(しっかりとここにいる)のを感じました。私は,その誘いをしてくれた人が,彼女の芯の感覚からこちらに向かってくるのを感じました。そのために,これほどすぐに,私の方でも芯から生き生きする感じを感じたのかもしれません。

 私の中の体験は3次元的に感じられました。そこには空間の広がりがありました。より自分であるという感覚があると同時に,見てもらっている, 聞いてもらっていると感じました。その人(私がまだあったことがない人)が,自分の誘いが何かを知っており,それに私が関わりうることを知っていると感じられるという意味で,見てもらっている,聞いてもらっていると感じました。その話題についての,情報が次々とわき出して,そのお誘いに応じたいと思い,その方法もわかりました。

 しかし,その依頼の一部については「考える」必要がありました。その依頼の中に,グラウンディド・プレゼンスにいることで,自分自身としっかりつきあいつつ,他者ともつきあうことがどのようにできるのかを示すためにエピソードを入れてほしいという一文があります。私はそこで行き詰まりました。グラウンディド・プレゼンスの例として,自分自身の例や他の人の例を思い出そうとしましたが,何も浮かんできません。私はつながりが切れたように感じました。そこで,私は自分自身の感覚に立ち戻りました。そうすることで,一瞬前に感じていたことに戻ることができました。

 突然,私自身をまったく新しく体験することができました。そして,より多くの情報があふれてきて,私の芯のプレゼンスが強まり,ことばが出てきました。「これが,グラウンディド・プレゼンスにいることだ。これが,ことばを越えた自分の体験だ。」

 私は「考え」ようとして,自分の感覚を失い,他のところに行ってしまいました。私は,グラウンディド・プレゼンスに戻ることで,空間的に自分に気づくと同時に,他者の感覚も持つことができます。他者は私から離れたところにいて,私の中には,お互いの違いを抱えておく大きな空間ができるのです。これらのことばは,この体験が私にとってこの状況でどういうものだったかを表現するために出てきたものです。

 このエピソードから,ホールボディ・フォーカシングが,しっかりと地に足のついた自分という感覚を持ちつつ,私たちの外の何かとつながるための枠組みを与えてくれることがわかります。その外の何かは,個人的な困難の場合もあれば,他の人との関係の場合もあります。ホールボディの用語では,これが,グラウンディド(地に足のついた)プレゼンスでいるということです。これが私に,よりしっかりと私という感覚を与えてくれます。

 地に足がつき本来の自分を感じているとき,私という感覚は私以上のものになります。そこには「私以上」という性質があるのです。そしてそれが,困難な状況に向かう際の際の資源になります。また,少なくとも意識レベルでは通常は感じないような,生き生きした感覚も感じます。その状況の中で生きている感覚を感じると,展開が自然とやってきます。グラウンディド・プレゼンスは私に,状況に関わるための知恵を与えてくれます。そして,状況について,私が知っていると思っている以上の情報を与えてくれます。

 もし,私の行き詰まった部分が出てくるなら,私は自分の方から出向いて,自分と,その行き詰まっている部分の内側の命との関係を築こうとします。今よりもよりよくなる方法を知っているその行き詰まりの部分との関係を築こうとします。次の例は,よくある身体的不調の問題です。もし,何か自分の膝が「よくない」と感じられたら,私は自分の膝に,機能的な膝としての膝自体がどのような体験をしているのか探るよう誘いかけます。そうすると,膝は,本能的に,それ自身と,脚や身体全体との関係を探りはじめます。膝は膝自身を知るために,このより大きな自分の感覚を必要としているのです。

 もし,それが人であれば,私たちの間にあるつながりに問いかけます。それがあなたとともにいるやり方を教えてくれるのです。私が「ここの私」の感覚をしっかり持っていれば,そこにいるあなたに場所を作ってあげることができ,今までの自分とは違ったやり方であなたとの関係を持つことができます。あなたとのつながりを,感情的にも感覚的にも感じながら,あるがままにしていれば,私の中の何かが,あなたと関わりつつ,私自身に関わり,あなたに何を言い,何をすべきかを知っているのです。私がそのつながりを感じなければわからないようなやり方で関わることができるのです。

 私自身の体験からはこんな風に言えます。「あなたとのつながりを感じなくては,あなたとどう関わったらいいのかわかりません。そのつながりを感じて,私の周りの命に支えられている私自身のグラウンディド・プレゼンスの中に立っていれば,あなたとの関わり方は自然と生じます。私の中の何かが,私も知らないようなやり方であなたとの関わりを知っているようです。」

 日常生活で,グラウンディド・プレゼンスの感覚によりしっかりといられるようになると,その人の生活が大きく変化するのに私は気づいてきました。プレゼンスをしっかりと感じるようになり,自分の重心から生きるようになると,誰もが変化します。重力のプレゼンスに引っ張られる力は,他の力とは大きく異なっています。非常に強烈で負担のかかる強力な引力であっても,それは,人が注意を向ける必要のある中心,それとともに生きていくべき中心に向かっている力なのです。

 ある人はこんな風に言いました。私たちの本当の中心から私たちを引き離すような偽の中心が多々あります。そしてそれは,難しいとか,きついとか,はめられたとか,不安だという感じをもたらします。真の重力の中心は,開かれていて,私たちのあるがままを支えてくれるものです。防衛の必要はないと感じられます。このからだで感じられる体験の直接を表現すると,「私はいる,ただいる,そしてそれがわかっている」といったものになるでしょう。

 グラウンディド・プレゼンスにいるという文脈で,私は「重力の中心」という表現を使いました。私たちは皆,その感覚を持って育ってきました。はっきりと感じられている場合もない場合もありますが,それは,人間の発達のどの段階でも私たちの体験に本能的に影響を与えてきています。もっぱら無意識で,きちんと取り上げられることはありません。しかし,きちんと名前をつけて取り上げれば,その記憶はよみがえります。私たちの人生の記憶の中に,新しいことをする能力を試そうとするときに,どのように何をすればいいのかを知っているという感覚にしっかりと根づいて(グラウンディド)いると感じていたときの記憶はよみがえります。

 それは一種の間(ポーズ)であり,それは本能的にもたらされるものです。例えば,よちよち歩きの子どもが歩けるようになったり,あるいはもう少し大きくなって,走ったり跳んだりできるようになるときです。あるいはさらに後,スケートボーダーやサーファーは,自然に生まれる間(ポーズ)に気づくことで,新しいより複雑な動きでのバランスを維持する力を完成させていきます。ですから,スポーツを習い始めた頃の発達のほとんどは,アスリートとしてうまく機能するような重力の中心を見いだすことだと言ってもいいでしょう。これを私たちは本能的に行っています。そして,それは,人生のはじめからそうやっているのです。ですから,この重力的なプレゼンスをあらためて意識化し,あらためて自分のものとしてもいいのではないでしょうか。単に本能的にあり方ややり方を知る方法としてだけでなく,今,より重要なのは,自分とは何かを知る方法として,です。それによって,私たちは空間と資源を与えられ,そこから,私たちは自分の中に何が起こっているだろうことと意識的に関わることができるのです。

 結論として,グラウンディド・プレゼンスでいるというこの体験全体について私が重要だと思う点を述べておきたいと思います。

 私自身の自己感覚が,本当に実感をもって鮮明に生き生きしてきます。私がこの生き生きさを感じるのはしばしば,内側に導かれた動きの感覚を通してです。生命の働きとして,身体はよりよい,より全体的なあり方に自分を再構成し始めます。それは,そうできる余地さえあれば,本能的にそうなるものです。

 私は,特定の部分や関係を支える知恵というのは,私が想像できるよりも大きい全体からもたらされると認識するようになってきました。グラウンディド・プレゼンスにおける自己は,私の重心の中心に支えられてはいますが,私が考えていたよりもずっと大きい自己なのです。